価値観は人それぞれという価値観 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

「“価値観は人それぞれ”という価値観」、権力構造を、最近またおもいます。


この“価値観は人それぞれ”って、ほんとに便利な、魔法の言葉だとおもう。ある組織内で最善の策を練るとかいったわけではない、個対個の段階なら、どのように白熱した議論もこのひとことであっさり片付いてしまうからである。たとえば安室奈美恵派と倖田來未派がネット上の掲示板やなんかでケンカ議論をしていたとする。こうしたときはだいたいふたつの問題が見えるばあいが多い。まずそれぞれのファンがそれぞれの価値観以外をまったく認めない頑な態度でいるときが多いということ、そして比較の基準がひどくあいまいであるということだ。こんな状態なので、そのうえ掲示板という性質もあって、たいてい議論はどこにも進まず、平行線をたどることとなる。そしてここにこの言葉を放り込むのだ。「まあ、価値観は人それぞれだよね」と。すると、あれほど白熱していた議論(?)がいっしゅんのうちに冷却されてしまうのである。というのは、そこで行われていた議論の無意味が端的に指摘されたも同然だからである。

僕じしん、ふだんのたわいのない会話でもブログ上でも、この言葉をつかいたい衝動にかられる瞬間はほとんど毎日ある。書評や音楽のレビューなんかをやってればなおさらだ。しかし信念上、僕はこのことばを可能な限り避けるようにしている。というのは、通読しているひとならわかるとおもうけど、このことばの内容そのものはまったく正論なのだが、すでに常識と化し、ある種の逃げ道としてつかわれることに僕を含めひとびとが馴れてしまっていて、知らず思考停止に陥り、じぶんの記憶・価値観に閉じこもった状態=「共感」を助長してしまうかたちとなってしまうことが多いからである。つまり、「価値観は人それぞれ」という一種の「価値観」があまねく人々を支配するという奇妙な現象が、ここでは起こっているのです。


これはけっこう危険な事態なんだとおもう。本来はさまざまな価値観が共存しあうことを許す、つまりあまり“一般的”とは言い難い価値観もとりあえず存在としては許容してしまうという、これはきわめておだやかで、あたたかな思想だったとおもうのだ。となると、この思想(価値観)が一般的となる以前までは、「多様な価値観」ということが認められていなかったからこそ、新しい大衆思潮としてこれがあらわれてきたのではないかとおもえてくる。「以前」とは戦争のことだろうか?それはよくわからないが、いずれにせよ、画一され、統御された価値観という状態を抜け出るために登場してきたものなんじゃないだろうかとおもえるのです。そしてそれは、少なくとも現代に生きる僕らの視点からは、まったく正論だ。…まあ現実には無意識下に「アメリカ」というものさしが存在しているのだけど。


そしてこの視点は、真理なんてない、絶対的な基準なんて存在しないということの確認、あるいは結果でもあった。つまり価値観の多様化(の認知)とは、てっぺんに立つ神様のようなものはこの世にはないんだ、ということの発見でもあったのです。だってそうでしょ。絶対的なものさしがもしこの世界にあるなら、どっちが善か、どっちがえらいか、どっちがきれいか、どのような条件下でもつねにおなじこたえを導けるはずなのだから。しかし現実はちがう。



ここまではよかった。こっちのほうをかっこいいとおもわなければならない、この本に感動しなきゃウソだといった状態を抜けて、自由に物事を(あくまで個体レベルだが)判断できるようになったのだから。もちろん、くりかえすが、「アメリカ」という価値観がかなり強烈に僕たち日本人を支配してきたことは否定できないでしょう。その状態を反省的に脱しつつある現在でも、今度は「アメリカっぽくはない」といったようなものさしがつねに僕らの価値観を構造的に規定するはずです。それはもう宿命でしょう。しかしそうすると「価値観なんて幻なんだ」というまためんどくさい別のはなしになってしまうので、ここで問題としているのは僕らが「価値観は人それぞれ」とくちにし、げんにそう考えていることが起こす事態のほうなので、価値観ということの本質についてはとりあえず問わないことにします。


では「価値観は人それぞれ異なる(ばあいもある)」というありかたは僕らのどのような思考順路を規定するのか?僕は…またおおげさなとか、我田引水だとかいわれそうだしじぶんでもそうおもいますが、すでにすっかり定着した「価値観は人それぞれ」であるという権力構造は、僕らにある種の甘えを許し、他者の価値観を拒否してみずからの価値観ばかりを信奉する閉じた「共感」に走らせているとおもうのです。ほんらいは様々な価値観を許容しようという運動であったはずなのに、驚くべきことにそれとは逆のことが起こっているとおもえるわけです。


ほとんどのばあい、つまり流行りの音楽や小説を感受するばあいでは、このことはまず意識されない。なぜなら大衆作品というものはあらゆる人間において「どうやらたしからしい」感情の動きを帰納的に抽出し、それを最小単位にしてつくられているからです。「価値観」というものの存在じたいを、ここでは意識する必要がまずないのだ。そういうふうにできているから。うまく歩けない状態になってはじめてひとは「足」の存在を意識する。さまざまにある価値観がもっとも厚く重なりあうぶぶん…そこを取り出してかたちにするのが大衆作品というものなのです。僕はそのことじたいをどうこういうつもりはない。僕だってそういった作品たちに共感することはあるし、ときには救われることすらある。



ところが、これがひとたびずれたものとなるとどうなるか。たとえば、ひたすらに“個”を追究したヒップホップのような音楽に直面したときだ。「価値観は人それぞれ」という呪文は、ここで僕らの思考を停止させ、感受機能を遮断してしまうのではないだろうか。ことばをかえてくりかえし書いてきたことだが、日本にヒップホップがなかなか根付かないのはこの思考習慣が理由だとおもう。



ここで僕が書いているのは、いうまでもないとはおもうが、「ヒップホップのような大衆からずれた音楽を聴かなければならない」とかいうことではない。だが「価値観は人それぞれ」だとするなら、大衆作品のような事態はむしろ特殊なはずなのである。

「共感」に終始しているかぎり、そこに成長はない。様々な価値観の存在とは、自己の価値観を保証するものではなく、他者の価値観の存在を受容し、理解しようと、「共有」しようとする意志を生成するものと捉えるべきなんではないだろうか。



あと何年かしてこの拙い、論理もあやしい文章を読んだとき、僕は「若いな~あほだな~」とおもうかもしれない。それはそれでかまわない。しかしまちがいないのは、未来の僕が「若いな~」とおもうその地点というのは、共有への意志を持ち続けた結果、成長を果たすことで獲得されたものなのである。


…なんかまるっきり真夜中に書いたラブレターって感じだな。