ブログのすゝめ② | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

ブログや、もうすこし閉じたmixiなどの道具を用いた「総表現社会」ということを考えていて、僕はじぶんの小学生時代のことを思い出していた。そして、小学生や中学生にこのような道具を与えることはもしかしてすごく効果的かもしれないとなんとなくおもった。以下、アイス食いながら考えたおもいつきです。

べつに確認はしないけど、小学生のころの僕は「積極的になりなさい」ということをよくいわれていた。これはべつにむかしだけのはなしではなくて、いまでもじぶんには攻めが足りないとはおもう。しかしまあそれは置いておいて、当時の僕らの周囲では「積極的」であることが最大の美徳として推奨されていた。要は、授業中などでも指されるのを待つのではなくじぶんから手を上げよう、係などもじぶんから立候補しようということです。

そんななかでは、僕の消極性たるやすごいものでした。通信簿にはなによりもまず「もう少し積極性を」と書かれるのが常だった。当時から僕は嫌になるくらいひねくれていて、あんなくそかんたんな問題になんで答えなきゃならんのだ、ていうかそんなこといちいち聞くな、係とか委員会にしても、やりたいものがないのだから立候補しようがない、というふうにおもっていた。しかしこころではそうおもっても僕は事実「積極性」に欠けたにんげんだったので、おおくのばあい最後の最後まで残って、誰もやりたがらないような給食委員会の委員長をやらされたりしていた。なんにもやりたくない、という僕の積極性は認められなかったわけです、当たり前だけど。(げんにそうくちにして揉めたような記憶もある)


それでここでなにが問題だったのかと思い返すと、もちろん教師が子供たちをあまりに「子供」として見すぎていたということもあるにはちがいないけど、彼らのいう積極性とは「積極的にじぶんの意見をもつ」ということではなく、「なんでもいいからひとまえにじぶんというものを提示する」ということだったとおもうのですよね。そして僕においてはまさにここが最大の壁だった。いやいまでもそうだけど。子供というのは大人になった僕らでは想像も及ばないくらいいろんなことを複雑に考えているし(さくらももこ「みんな恥知らず」参照(笑))、どうでもいいようなことに悩んでいる。「恥ずかしい」という感情がいったいどこからくるのか…クラス内での位置・キャラクターとか、もっとたんじゅんに滑舌が悪いとか、あたまわるいとおもわれてるからヘンなこと言っちゃうのがこわいとか、こないだうんこもらしたばっかりで背後からばかにされるのがこわいとか、それはまあいろいろな条件があるにちがいないけど、僕らほどに無神経にはなかなかなれないんじゃないかと。それでおもうのが、クラス内でmixi的に閉じた、クラスメートと担任のみが参加するコミュニティにおけるブログ表現…。もちろんこれの最低条件として、各家庭におけるパソコンの設置と、学校内でもPCルームを設けることというのが出てくるわけで、私立でもなければ無理なはなしということになってしまうかもしれない。技術的にもどうなのかよくわからないし。だから、僕はべつに教育委員会のにんげんでもないので、暇人の与太るひとつのモデルとして無責任に読んでもらいたいのだけど、これはけっこうおもしろいことになるんじゃないかと。




ここで重要なのは、管理人的な位置の担任がこの自由参加型クラス内シンポジウムにひとりの論者として参加することかと。というのは、自由参加型である以上、読むだけで更新しないというのもアリという形式が肝なわけだけど、ここで止まってしまっては意味がなく、発言のできない子供がより内向してしまうということになりかねない。そういうとき、いわば神の立場にある担任が、子供たちの位置に下りてきて同様に語り合うということはとても効果的なんではないかと。これはふつうの教室でもあるべき姿ともおもうが、黒板の前にじぶんの倍くらいある大人の担任がどかっと座っているのと、ネット特有の発言力の均質(読んでも読まなくてもよい)をおもえば、効果はそれ以上かもしれない。



なにより顔が見えないというのがいい。発言をするからには意見がなくてはならない。これをいかに引き出すかというとき…、家で飯食ったあと、こういう環境にあったとしたら、ほんとの意味での「積極性」が育まれるんじゃないのかなー。もちろん、そうなると今度は文章を書くのが苦手な子が沈黙してしまうわけだけど、これまではひとつしか方法がなかったのだから、選択肢が増えるという意味ではいいんではないかなー

…まあ机上の空論ですね。