■『言葉とは何か』丸山圭三郎 ちくま学芸文庫
「言葉とは何か?根源的で正解のないこの問いに真正面から取り組んだ、もっとも明晰な入門書。記号学・言語学研究の第一人者である著者が、言葉という永遠の謎に迫る。言葉はものの名前ではない。〈表現〉であり〈意味〉である。では〈意味〉とは何なのか―――ソシュールをはじめとする言語学研究の軌跡を紹介しつつ、具体的な例を駆使し、平易な語り口で、伝えがたいことをできるかぎり噛み砕いて解き明かしてゆく。言語学、記号学、ソシュールに関心をもったとき、まず最初に読むべき一冊。術語解説、人物紹介、参考図書案内付き」裏表紙から
言語学や記号学、ひいては構造主義の父といえるソシュール研究の第一人者、丸山圭三郎に『ソシュールの思想』という論文があって、本書は筆者じしんによるその解説といったところのようです。丸山圭三郎や『ソシュールの思想』についてはあちこちで目にしていて、どこか敬遠しているようなところがあったのだけど、非常にわかりやすく、僕じしんはこれまでにさまざまなかたちでソシュールの思想に触れてきていたが、たぶんまったくはじめてというひとが読んでもなんの問題もないんじゃないかとおもう。そして短い!難解な論文というのは難解なだけにだらだらと長いということはよくあるが、かのソシュールをこんなにコンパクトに、端的に、しかもわかりやすくまとめあげてしまうなんて、さすがといわざるをえない。
ソシュール思想のてっぺんにあるのは「言葉は事物の名称リストではない」ということだ。これは自国語と他国語を比較するのがいちばんはやい。いま僕らの目の前に「犬」と「狼」が、一匹ずつ突っ立ってこちらを見上げている。しかし日本語ではない他のある言語で思考するにんげんは、これを見て「二匹の犬がtsucchiniを見上げている」と考えるかもしれない。
「それぞれ、『犬』と『狼』という語で指示される動物が、はじめから二種類に概念別されねばならないという理由などどこにもないのと同様に、あらゆる知覚や経験、そして森羅万象は、言葉の網を通して見る以前はどこにも境界線の引きようのない連続体なのです」P11より
「言葉は、それが話されている社会にのみ共通な、経験固有の概念化・構造化であって、外国語を学ぶということは、すでに知っている事物や概念の新しい名前を知ることではなく、今までとは全く異なった分析やカテゴリー化の新しい視点を獲得することにほかなりません」P17より
僕らが息づくこの日常的な世界では、げんに犬がそこにいて、コレが犬だから僕らはこれを「犬」と呼ぶ、というのはきわめてふつうの感覚だ。しかしソシュールはそうでないという。言葉が世界を解釈する以前、世界はどこまでも意味をもたない連続体であって、言語外世界にじっさい犬が存在していることはまちがいないとしても、これを「犬」と認識するためには言葉が不可欠であるのだ。
またこの「犬」の「意味」にしたところで、目の前にいるこのワンコが「犬」という「意味」を最初から含んでいると考えてしまえば、それは再び言語名称目録観へと戻ってしまう。「犬」はそれじたいでこのワンコをさすのではなく、その他の言葉、「犬ではない」という言葉との差異性により相互に規定される。このことについては丸山圭三郎がきわめてわかりやすい例を示している。見事なので引いておきます。
「たとえとして、箱のなかにびっしりつめこまれた饅頭と、同じ大きさの箱のなかに押しこめられている風船を想像してください。その風船は、ただの風船ではなくて、圧搾空気が入っているものと仮定します。さて、饅頭の場合は、そのなかから一つ取り出して箱の外においても、当然そのあとに空隙ができるだけで、箱の外においても、当然そのあとに空隙ができるだけで、箱のなかの他の饅頭どうしの関係は変りません。(略)。
ところが、技術的に可能かどうかという問題はさておき、圧搾空気をつめた風船の場合は、箱のなかでしか風船の大きさがない事実に注目してください。もしそのなかの風船を一つ外に取り出すと、当然ながらパンクして存在しなくなってしまいます。また、それが箱のなかで占めていた場所も、空隙となってそのままぽっかり穴を残すことはあり得ず、ひしめきあっているあとの風船すべてがふくれ上がってそのすき間をあっというまに埋めてしまうことでしょう」P133より
ソシュールはシニフィアン(意味するもの)、シニフィエ(意味されるもの)という用語をつかったが、シニフィエということは「『犬』の意味」、犬じたいの本質、実質を指すわけではない。〈意味〉とは、なにかを指し示すもの(指向対象)ではなく、それ以外の〈意味〉との関係性によって成り立つもの。僕らはのっぺりと連続した一枚岩である言語外「世界」と「認識」のあいだに、網のかたちをした「言葉の世界」を挿入することで、この認識を不連続として、いわば秩序を与えるのだ。
だからソシュールは、「体系」の内側にある「単位」について、それじたいで〈意味〉をもち、いわば単独で自己規定可能なものではなく、出発すべきは〈全体〉からだとする。これがのちに構造主義へとつながっていく思想なんだろう。僕らには、ひとりひとりの〈意味〉をもった人間が複雑に絡み合うことで社会を形成するという感覚が普通にあるが、単独で、即自的に〈意味〉をもつものなどありえない。社会という体系のなかで「僕(tsucchini)」という辞項は、「非僕」ということとの差異なしでは規定され得ないのだ。
フロイトでは、未だ自我が確立せず、他者の概念がない、すべてをひとまとまりに捉える「大洋性」の感覚にある乳児は、母親という他者の乳房を求め、これが手に入らないときに「不快」を覚えて、はじめて自我に対立する「客体」を獲得する。そしてこの不快感を追い出そうと(つまりお乳を手にしようと)主体的に働くことで、外部と対立する快感自我を形成する。関係性による外からの規定、ふちどりをもって、僕らははじめて自我を、〈意味〉をもつのだ。
ソシュールの理論はもちろんこんなところでは終わらず、まだまだ深いわけだけど、この本は、巻末の用語解説含め、これからくりかえし本棚から抜くことになるのはまちがいない。次は『ソシュールの思想』にいってみたいとおもいます。 文庫化されてるかな?
