映画は現代の総合芸術 | すっぴんマスター

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ブログネタ:映画は字幕で見る?吹き替えで見る? 参加中
これ、おもいますよね。

いちばんいいのは字幕でも吹き替えでもない、つくられたままを見ることだけど、それを言ったら身も蓋も無いか…。


吹き替えは、いうまでもなく、役者の演技のいちぶがべつの演技に置き換えられてしまうわけだし、声における人物の感情の機微というようなことが声優を通過してしまうというのがなにかこころにつかえる。字幕では、翻訳者による物語の解釈が少なからず入ってしまうというのが気になる。まあ、それは吹き替えもそうなのだけど、とりあえずそれを認めて受け入れてしまうということなら、役者の動きとことばを同時に知覚できる吹き替えというのは見やすいのかな。どんなに字幕が短く、読みやすいものになっていても、やっぱり一瞬は画面から目をはずすことに変わりはないわけで…。友人の彼女のはなしなんですが、この子はしっかり者なのにかなりぼけぼけしたところのある女の子で、展開のこみいった映画だと字幕と映像を同時に認識することができなくなってしまい、頭上にクエスチョンマークをぴかぴか点灯させながら、上映中、いま物語のなにがどうなっているのかということの説明をマイメンに求めるのだそうです。おかげで彼のほうもちゃんと観れないのだとか。

もちろんこれは極端なはなしだとはおもうけど、だけど真剣に映画観ようとしたらそういうこともあるかなぁとかおもいます。絵は視覚で、セリフは聴覚で、やっぱりそれぞれに直覚したいですよね。ていうか、もともとそうつくられてるわけですから。

しかし吹き替えのあの、下手くそな翻訳書を読んでいるような、まったくちがう奇形的な作品を観ているような感覚はちょっと気持ち悪いんだよな…。ほら、よくある、「現代語版夏目漱石」なんかを読んでるような…。小説に限らず哲学書だってなんだって、もとの文体というのはそれなりに物語(文章)的要請があって作者から生み出されるものだとおもうのでね…。柴田元幸という翻訳者は翻訳の感覚を「ゼロになる快感」と表現しています。


「翻訳の快感は、自分の痕跡がどんどん消えていくのを目撃することにある」
『佐藤君と柴田君』(白水社)より


ときどきテレビ放映用の吹き替えを日本の芸能人がやってることがあるけど、だからあれは意味がわからん。その点、中川翔子はすばらしいですよね。DVD版『サイレント・ヒル』ではこのひとがアレッサの吹き替えをやっていたのだけど、あれ上手かったなぁ。変わり者ではあるけど、あたまのいい子なんだとおもうなー、たぶん。


字幕なら、できるだけこれを見ないようにリスニングしながら、文中の編者註でも読む気分でときどき視線をはずす、くらいがいいのかなー。