第120話/サラリーマンくん29
「小堀、
お前の家の近所の
公園に来てくれ
夜12時まで待っている
大事な話があるんだ
板橋より」
板橋はこのようなメールを小堀に送信した。この画面は小堀の携帯のもののよう。
ビルから降りた丑嶋とマサルは、同僚の小堀を取り込み詐欺に協力させるよう、板橋に言う。它貫はどこかに行ってしまっている。
買い取りは10億というはなしだったけど、丑嶋は3億でいいという。それで它貫とはハナシをつけてやると。しかしそれができないばあい…。板橋は殺される。ロシアンマフィアのルートのある它貫は、板橋を漁船に送り、おわりのない強制労働をさせるだろう。からだを壊してしまえばオシマイ、オホーツク海にドボンである。むろん生命保険をたっぷりかけたうえで。ヤクザはめんつの生き物だ。あらたに金が得られない以上、板橋を生かしておくわけにはいかないのだ。
夜の公園のまんなか、疲れきってすっかり影の薄くなってしまった板橋が、さびしく小堀を待つ。時刻は不明。板橋はマイク付きイヤホンをつけていて、音声は近くに停車して待機する丑嶋、木の影に隠れて見張るマサルに通じている。と、小堀が現れる。板橋はあまりに意外な親友・小堀の登場に驚きを隠せない。そんな板橋に、小堀は「お前が呼んだんだろ?」と、まるでこれまでお互いになにもなかったかのように応える。それに笑って応える板橋。なんだろう、ひとこまひとこまが、せつなすぎる。結末を知ってるとよけいだ。
ふたりはベンチに腰掛けて雑談をする。ひとつのベンチに並んで座ればよいものを、なぜかふたりは、ふたつのベンチの接近した切れ目のところにそれぞれわかれて座る。そのせいで公園の景色はちょうど左右対称になり、両者の位置が非常に似通いながら、またお互いに親友と呼びあえるほど深く認識を共有しあいながら、わかれ、はなれてしまった現況をあらわしているとおもう。しかし、今夜のふたりの距離は非常に接近している。
小堀は“心の風邪”で会社を休んでいることを板橋に告白する。対し板橋は「大丈夫か?」ととぼけた応答をし、「大丈夫じゃねェーから休んでンだよ」と小堀につっこまれる。以前の両者なら、じぶんのことでいっぱいいっぱいの両者なら、小堀はじぶんのはなししかしなかったろうし、板橋はいらいらと「その話、まだ続く?」とか言い出すところだろう。しかし今夜はちがう。小堀は先日発見した古い写真をアルバムにして板橋にプレゼントとする。10年前の、若き板橋。振り向いた肩越しに、顔を隠すようにピースした写真だ。小堀はこのころは仕事や夢や女のはなしをよくしていたことを思い返す。
板橋は小堀の妻、結子とじぶんがうつった写真も発見する(結子、胸でかっ!)。ここでも、板橋はなんかヘンなピースサインをしてふざけている。
「俺も、結子さんも、小堀も、楽しそうだな…
あの頃は今よりもっとよくなるって、信じてたからな」
板橋は小堀に、怒ってないのかと訊ねる。金を借りまくり、カードを盗んで100万近く借りこみ、あげくは無断で身分を悪用して詐欺まで働こうとしたのだ。それどころかふたりはいちど絶交しているはずなのだ。わずかの現金を絶縁状として。ふたりが会うのはそれ以来はじめてなのだ。だからこそ、板橋は小堀の登場が意外だったのだ。
しかし小堀はいう。もうイイと。お前“も”大変だったんだろと。
「カードローンと銀行融資の件は、弁護士に相談してる。
弁護士費用が多少かかるけど、なんとかなるさ。もう気にするな」
つまり訴えてないということだろうか。戸越の言っていたあれは、やっぱりウワサだったのかな。あやふやな伝聞を聞いた誰かの勝手に推測した内容が、いつのまにかほんとうみたいになってしまったのだろう。でも、なんとかなるって、どうなんとかなるんだろう…。
「板橋、この頃、お前
よくガンバってたよな」
小堀は、先週戸越に褒められた喜びを板橋に伝えるとともに、褒められることの重要と、社会に出てからはそれがなくなってしまったことをくちにする。コマをわけて、まるで鏡のように小堀と同じくさびしげで疲れた背中を見せる板橋も、「褒められるために必死だった」という。
「いつの間にか退屈で先のない仕事に、生きがいを見失って、ずっと彷徨っていた…」
ふたりは親友だった。鏡であった。お互いに存在することそれじたいで、同時にお互いの存在をたしかめることができる、そういう得難い友人どうしだった。板橋、小堀の個人が云々ではなく…まさに板橋は小堀であり、小堀は板橋であったのだ。
最近いろいろあったんだと小堀はいう。だけど会社を休んでいろいろスッキリした。
「一生懸命が報われない社会でも、
サラリーマンは粛々と仕事をすればそれでイイ
コツコツ働いて家族を養えればそれでイイと思うんだ」
小堀の、真鍋昌平の出したこたえだ。結果ややり甲斐も、たしかなかたちであったほうがそれはいいだろう。しかし…仮に報われなくても、見返りがなくても、仕事することそれじたいが“仕事”なのだ。このこたえはきっと賛否両論あるかとおもう。しかしこのこたえじたいがリアルであるかとか、共感できるできないとかではなく、まず重要なのは小堀がそういう結論を出したということだ。
小堀はふと思い出し、なにか頼みがあるんだろ?と訊ねる。板橋はメールで“頼み”とは言っていない。“大事な話”と書いている。このことから小堀は、金の相談だろうと考え、そう了解したうえで来たのだろうということが推測できる。
しかし板橋はなにもないという。そして、これまでの卑屈な虫みたいな表情の失せた、きわめて優しくやわらかな笑顔を見せる。
「お前が来てくれたからそれでイイ」
板橋…。
むしろあっさりと、板橋は立ち上がって小堀に別れを告げる。無線で会話を聞いていた丑嶋が詐欺の話はどうしたと訊くと、小堀は会社を裏切るようなマネはしない、それにこれ以上小堀に迷惑を掛けたくないと板橋は応える。同様にはなしを聞いていたマサルは、やや焦った様子で、板ちゃん、ちゃんと説得してこいよ、このままじゃお前殺されるんだぞ、と諭す。融資の際マサルは板橋の担当だったから、個人的な含みがそれなりにあるのかもしれない。マサルさん、じゃあ3億円貸してェ!という板橋の冗談が、あまりにさびしい。
「いいのか?板橋」
「これ以上、
自分を嫌いになりたくない」
無線に対してぶつぶつ言っていたからか、様子のおかしい板橋を追ってきた小堀が大丈夫かと声をかける。板橋は恐怖で震える右手を動かせて、さきほどの写真のように、背後の小堀に向かって肩越しのピースをしてみせる。
鼻水やよだれを垂れ流し、全身を震わせる板橋を乗せて、丑嶋の車は発車した…。
白と黒、光と闇が表面に共存するパンダの遊具のそば、ブランコに揺られながら小堀はおもう。
「公園って…
昼と夜とじゃ違う所みたいだな」
次号、最終回につづく。
今週も、いろいろのことのまえにとにかく感動してしまった。板橋のこの心境の変化はなんなのか。二週間前に沖スロ妄想していたおとこと同一人物とはとてもおもえない。いったいなにがあったのか。
板橋があのように極端な短絡思考に陥っていたのは、逆に考えれば状況が見えていたがゆえの、いわば逃避行動だったのだろう。だから丑嶋たちにさらわれたときにもあまり感情の揺れが感じられなかった。姥捨てを覚悟したむかしの老人のような気分だったのかもしれない。
它貫に突き落とされかけ、詐欺が成立しなければ死ぬと丑嶋に告げられたときも、だから板橋はあきらめたような、空虚な気分だったのか。そしてもう逃避ができないことを悟ったか。小堀のことも最初はどっちでもよかったのかも。しかし小堀は来た。ではなぜ小堀はやって来たか。むろん、このシリーズの「こたえ」となるあの悟りを得たからだ。夫婦仲がどこまで修復されたのかはちょっとわからないけど、人物紹介を見るかぎり、妻はちゃんと家に帰ってきていちおうは看病をしてくれているみたいだ。戸越の「必要」発言=褒めも当然小堀を大きく回復したことだろう。これまでやってきたことが誤りではなかったと認められたのだ。小堀は現在仕事を休んでいる。実際的な、思考を狂わすあの疲弊からはいちおう抜けた状態にある。おかげで小堀は、“仕事”というありかたの生のかたちを巨視的に観察できるようになったのかもしれない。そのさきに彼が見出だしたのは、みずからの記憶の再体験=共感ではなく、共有である。すべてのサラリーマンへの親密な理解、認識共有の感覚である。そして親友・板橋への「赦し」である。「お前も大変だった」発言などからもこれはわかる。この漫画のキャラクターが支配され続けていた共感地獄を、小堀はやっと抜け出したのだ。
板橋はこんな小堀と顔をあわせ、どのような気分になったのか、それはわからない。しかし以前の、親友だったときの感覚を思い出したのであろうことは想像に難くない。小堀と板橋は表裏一体、お互いがお互いの存在を規定しあうことで成立する究極の人間関係にあった。僕は親友とはそういうレベルのものだとおもっている。恋人もしかり。しかし板橋も、小堀とはかたちはちがうが、深い深い共感に陥り、このことを忘れていた。板橋は、小堀に赦されたことそれじたいより、むしろ赦しの、共有の感覚に触れたことで、もちろんむかしの写真も手伝って、この感覚を思い出すことができたのだ。丑嶋やマサルに「いいの?」といわれたときのことばがちょっとうそくさいのは、板橋がこれをことばで説明しようとしたからだろう。最後の最後にやっと、あまりに遅すぎるタイミングに目を覚ました板橋にできたのは、元気なまま、小堀の好きな板橋のまま、ピースサインで消えることだけだった。親友に対し、男を見せたのだ。この板橋の改心は、だから親友である小堀以外を相手にしたのではありえなかったろう。ひどかったもんね、ついこないだまで。
残すところあと一話ということで、次回はおそらく作者もよくわからないまま投げ出し放置してしまった小堀と結子の描写があるとおもわれます。小堀の影、板橋はオホーツク行きだが、物語としては、どうあれ板橋はピースサインのまま小堀の一部をなしていくだろう。あとは、小堀の「光」が、いかに彼を照らすのか。
丑嶋とマサルについて書けませんでしたね。サラリーマン編終わったらまとめようとおもいます。覚えてたら。