■『演劇入門 邪馬台国の謎』つかこうへい著 白水社
演劇入門 邪馬台国の謎
「あの『娘に語る祖国』の著者が、演劇を語りながら、古代史最大の謎、邪馬台国の特定に挑む。そんなことができるのか。できてしまうのだ、この人になら。やってしまうのだ、この人は。不可能を可能にするこの人の、凡人の常識をはるかに超えたこの人の、待望の演劇的処女演劇論集」
帯から
なんだか、へんなはなしでした。でもすばらしいエネルギーに満ちていた。
つかこうへいを読むのは『蒲田行進曲』以来です(名作!)。これは僕は久世星佳主演で宝塚版のお芝居のほうも見ているのだけど、これもすばらしかった(生で見たんだったかビデオだったか、どうしても思い出せないのだけど…)。
蒲田行進曲―つかこうへい演劇館
この『邪馬台国の謎』は、市川という高校の演劇部教師がつかこうへいにインタビューするという形式に、いちおうはなっている。とはいえ、あっちへいったりこっちへいったり、つかの話す内容もじっさいにいるところも、舞台はごろごろせわしなく入れかわり、ときどきつかが催促したり市川が露骨に質問でもしないとなにがなんだかわからなくなってくる。
そしてこの小説内の「つかこうへい」というのがすごい。いっけんただのホラ吹きで、自家撞着的な言動もときには見られるのだけど、しだいに「つか」の、『蒲田行進曲』の銀ちゃんを思わせるような傍若無人の態度が妙な説得力をもってこちらに迫ってくるからおもしろい。後半、つかは邪馬台国の位置を特定しようとあれこれ模索するが、それはとても「推理」と呼べるようなシロモノではなく、目ぇつぶってダウジングかなんかやったほうがいいんじゃないかってくらい、論理性というようなことからはかけはなれたあてずっぽだ。しかしそのような、市川の視点に代表されるような“良識”はつか演劇においてはなんの意味ももたない。
「つまり、会社行ったり、炊事洗濯する日常ってのはおもしろくないもんなんだ。でも、おもしろくないからといって、むやみに亭主が会社で掃除婦のおばちゃん犯したり、主婦が家に米屋連れ込むにはいかんわけだ。そんなことしたら社会というものが維持していけないからな」
(略)
「でだ、開幕ベルが鳴る。幕が上がる、と、えも言われぬあやしい役者が出てくるわけだ。それがあやしい目線やしぐさで『あなたがた、サラリーマン生活は空しくありませんか?さっタイムカードなんか捨てて、一緒にケダモノになりましょうよ』と客を挑発するわけだ」
(略)
「そして、さんざん心をもてあそばれ、幕が開き客電がつくと、我にかえる。そして、『ああ、芝居でよかった』となるわけだ。おもしろくもない日常生活のガス抜きなんだ」
このようなつかの小説的演劇論群は戯作的な手法でほとんど脈絡もないままぐいぐい書かれていき、やがてそのまま奇妙な説得力を帯びはじめる。ああ、なるほど、そうなのかも、と僕らはおもいはじめる。これが「つかこうへい」の信じる演劇のちからなのかもしれない。そしてこのおはなしにおける「邪馬台国」とはその象徴だ。
「オレは役者というものに夢を持っているんだよ。
オレは演劇人だから夢を持っていたいんだよ。女の無垢な瞳を見つめかき抱き、男が熱い想いを打ち明けさえすれば、虹が、その冬のように心閉ざした女の胸を、七色に染めると信じてたいんだよ。オレは演劇人だから。あいつらは必ず邪馬台国を捜し当てる」
はっきりいって文章はそうとうあらい。アクション(動き)の描写もほとんど読者の想像力任せといった感じだ。というのは、僕らがこれを読む時間と場所においてまさに「役者」だからだろう。演劇とはなにかという市川の問いに、つかはF1だと応える。
「問題はそのスピードにあるんだ。時速50キロあたりでチョロチョロ走ってるやつを誰がみにいくよ。やっぱメーターふりきってレッドゾーンで走る。その命知らずなところに感動するわけだ」
(略)
「役者なんてのはよ、キー渡して『さっ、運転してみろ』ってほっぽっときゃいいんだよ」