サラリーマンくん25/第116話
仕事でも家庭でも甲斐を見失い、自殺のロケーションを採点して歩くまで絶望しきった小堀は、以前板橋とともに訪れた出会いカフェで知り合ったしおりと連絡をとろうとしていた。本心はどうあれ、しっかりと“こぼり”のことを見てはなしをしてくれる人間が、もはやしおりしか思いつかないのだ。しかしなかなか連絡がつかない。しおりは板橋に雇われて小堀の免許証を盗んだりしているわけだから、まあ当然だろう。
いちばんかんたんなのはしおりの働く出会いカフェに会えるまで通いつめることだが、小遣いはもともと少ないし、裏パチスロでゲットした臨時収入も絶縁状としてみんな板橋にあげてしまった。そして小堀はついに借金に手を出してしまう。最高融資300万円、金利9.8%~18.0%と書かれた「Cash Friend」の広告を手に、小堀はここへ電話する。これをゲットする描写ってありましたっけ?ティッシュかなんかに入ってるようなやつかなー。違法金融かどうかも僕の知識では判断つきません。とにかく、まじめだった小堀が借金に手を出してしまったということです。からだを震わせながら電話をする小堀の姿が、生活の事態が遠いところ、以前とはすっかりちがったものになってしまっているということを示している。
小堀は融資を受けるポイントとして、「即日融資=いますぐに金がほしい」ということと「明細が家に送られてきたりしないか=妻には内緒にしたい」ということを確認する。切実に「他者=しおり」からの規定を欲してはいるが、まだ板橋ほどに「後先考えず」みたいにはなっていないようだ。ここで小堀はやっと免許証の紛失に気付く。これはたぶん月曜で、しおりが免許証を盗んだのは金曜の深夜だったから、丸三日くらい小堀は気付かなかったことになる。しかし小堀はこれを盗難とは考えず、「最近ボケてるから」と、みずからの不注意による紛失と解釈する。
保険証と給与明細を手に、来月一括返済で利息443円ということであっさり三万円ゲットして出会い喫茶「ギラリカフェ」に赴くがやはりしおりはいない。「誰でもイイか」ということで小堀がセレクトしたのは…。
「私ィ~
人から言わせると天然。
つーか、いじられキャラなんですよォ。
たまたま仕事探しててぇ~
えーえー」
もういろいろいっぱいいっぱいです。ごちそうさまでした。
小堀の表情も複雑だ。つっこみあぐねているようにも見えるし同情的なようでもある。そんな挙動不審な女は「火遊び」と称して小堀をホテルへ誘う。一万五千円で。どんな事情があるのかは不明だが、とにかく汗だらっだら、じぶんじゃダメなの?そこんとこどうなの?と、緊張やら焦躁やら、あらゆる感情の入り交じる切羽詰まった目付きで女はごりごり小堀を誘う。そんな彼女を小堀はちっちゃいコマで、ごめんなさいと、ほんとに申し訳なさそうにフる。「選ばれない女はツライ」と女は卑屈な言葉を吐く。
「でも、ありがとう。
実は、私、出会いカフェに来て、初めてトークルームに呼ばれました。
選んでくれてありがとう…」
さびしそうに去る「選ばれない女」の背中を、他者からの規定を求めてカフェにやってきた小堀も複雑な背中で見送る。
そのあと、しおりのプロフ・カードを発見して彼女が来ていることを知った小堀はこれを指名する。しおりの表情はかたい。だが用件が免許証のことではなく、ただ会いたかっただけだと知って安心する。
腹が減ったというしおりに小堀は320円の牛丼をおごる。以前よりは明らかに安上がりだ。
「ずっとキミと話したかったんだ。
僕の顔と名前知ってるから」
知り合いなんて周りにいっぱいいるはず、なんで私なのかとしおりは当然訊ねる。
「その“周りにいる人達”とうまくいかないんだ。
キミがいいんだ。とても」
中学生みたいに不器用な口説きかただ。しかしなにをおもったかしおりは「海行こう」と言い出す。表情はかなりやわらかい。そしてふたりはお台場船上デートを敢行する。海を眺める小堀の首ねっこを「元気になるツボ」として、しおりはマッサージする。
「効いた」
「嘘付け!」
「本当に効いた」
…マンネリ気味の彼女から離れ、仲良しの他の子とじゃれあってるときのあの気分だろうか。悪女だぜ、しおり。心なしかいつもより絵もていねいだ。でもしおりの真意はともかく、小堀が癒されたことはまちがいないだろう。キャバクラ効果かな。
とはいえ、現実的には「本心」なんてことはじっさいに表出されるふるまい=テクストとは無関係なことだ。もしこちらが、その「本心」と「ふるまい」のちがいを知覚してしまったり、こいつの本心はこんなことではないのかもと邪推してしまうなら、そのじてんで「本心」なるものの上澄みは「ふるまい」に含まれている。当面重要なのはしおりがつぼをマッサージして小堀が効いたとおもったことであり、そこからさきの、たとえば金で動くしおりが牛丼ごときでここまでやるはずない、だからこれは本心からの行動だ、といった推測はいわば文芸批評とおなじ分析的態度であって、ただじぶんのことを見てはなしをしてくれる他者を求める小堀からしたらふるまいに悪意が感じられない以上(つまり彼が感じていない以上)、これはどこまでも好意的なものなのだ。文芸批評的態度というのも、じつはすべて「ふるまい=テクスト」を分析することで成り立つもので、僕らはどこまでも「本心」にたどりつくことはないはずだ。分析はこれの地図となり、ある程度理解を助けるものだろう。
ほくほくいい気分になった小堀だが、自宅では信じられない事態が待っていた。遅くに帰宅した夫を、妻・結子はすさまじい迫力を放つ背中で沈黙したまま迎える。いつもならびくびく顔をうかがっているだけの小堀だが、今日は舌打ちをし、「また無視かよ」とつぶやいて珍しく感情をあらわにする。
すべてがどうでもよくなっている小堀に妻はなにかの明細書をつきつける(背中向きに)。小堀のキャッシュ・カードの明細だ。請求額は寝耳に水の966720円である。もちろん、板橋が蛭谷に脅されて新幹線の回数券を買ったときのものだ。びっくり仰天とはこのことだろう。
いっぽう、小堀と板橋の勤務先、精和医療の社員たちは板橋の借金の取り立てからの電話対応に追われていた。いつのまにか板橋は退職したようだ。当然返済が滞っている数々の金融屋が、行方を求めて会社にかけてきているのだ。からっぽの板橋のデスクは空白のようだ。
たくさんのおそらくは請求書がつっこまれたドアの向こう、家に取り立てもくるのかもしれない、自宅に篭城している板橋は、鳴り続ける携帯電話を恐れ、押し入れに隠れて震えながらこれを見つめているのだった…。
ついに板橋と小堀それぞれの世界が交わりはじめましたね。免許証ないことにも気付いたし、使ってないカードがなくなっていることにもすぐ気付くだろう、小堀は。しかし結子はどう考えるか。この前の泊まりのことも含め、夫が使いこんだと彼女が考えるのはむしろ自然な気がする。
結子が板橋訪問を夫に伝えていれば、あるいは小堀が板橋との絶縁を妻に話しておけば、回避できないまでも、もう少しはやくこのことには気付けただろう。これは板橋の悪意が起こしたものではなく(元凶にはちがいないが)、むしろ会話のない夫婦というありかたがもたらした悲劇ともいえそうだ。あれほど無計画にやたらと動きまわる板橋がふたりのあいだを通過しているのにも関わらず、両者はそのことを話し合わず、それぞれかってにあたまのなかで解決するのみ、お互いが同じものを見たことすら知らないのだ。ちょうど板橋を介して、夫婦のすれ違いが表されているわけですね。