じぶんで書いた小説の手直し…というか厳密には読み直しって、もう何度も読んでるからか、書いてるときほど楽しくないんですよね。しかもできる限り客観視しようとするから、読むテンションも変な感じだし…。要は、ものすごい疲れるんですよね。特に古いものについては、もはや最初からやりなおさないと取り返しがつかない種類の拙さも目につくからイライラするし…。手直しって、あんまりよくないんですよね、ほんとは。ていうか、本心ではしたくないんですよね。どんなに稚拙でもたしかにある生々しさが失われてしまうから。げんにいま推敲してるやつなんか…新人賞の時期がくるたびに手を加えるから、もはや原型をとどめず、こんな小説だったかな、って感じ。なんというか、スマートになりすぎてしまって…。だけどいちど読み返してしまえば直さずにはいられず…。
いまドラゴンボールZのDVD観てて、悟空がトランクスと悟天にフュージョンを教えてるとこで、ふたりが「左右対称」のことばの意味がわからないというシーンがあったので、この意味をたとえを用いずに説明しようと考えてみたら、意外とめんどくさいことに気付きました。そいで広辞苑ひいてみたら、驚くべきことに「左右対称」という項目が存在しないのです。「左右相称」はあるけど。
それで「対称」でも同じことだからひいてみました。
【対称】
①互いに対応してつりあっていること。相称。
ア:〔数〕一定点0を通る直線上で、0に関しそれぞれ反対の側にあって0から等距離の2点を、0に関し互いに対称な点といい、0を対称中心という。また、ある直線1または平面αに対する垂線上で、1またはαのそれぞれ反対側にあって、それらから等距離の2点を、1またはαに関し互いに対称な点といい、1またはαをそれぞれ対称軸または対称面という。図形上のすべての点の対称点がその図形自身に含まれるとき、この図形を対称な図形という。
…。
…んめんどくさっ!!
左右対称っつったらオマエ、あれじゃん、こう、ある線を境にさぁ、同じかたちなんだけど、線越しに逆っていうかさ、いや同じなんだけど、こう鏡みたいにさ…
…知ってはいたけど、比喩って大事。communicationの接頭辞comには「一緒に」というような意味がある。すべてのコミュニケーションは記号認識の共有で成り立っているということを、哲学者たちの言葉がなぜあのように難解になってしまうのかということとともに、改めておもいました…。