熱出してぼんやりしてるあたまで、前記事の「詩とは何かという問いには、詩そのもので答えるしかない」ことについて考えてみました。というか、そういう夢を見ました。
詩でも小説でも…ある作品を目に耳にしたとき、僕たちはその評価として、きれいだとか、よかったとか、立派だとかおもい、作品を形容することばとしてこれを用いて感想を述べたり批評を書いたりできる。しかしじつはこれらのことばは、すべて対極の意味…きれいでない、よくない、立派でないという意味と対立し、相互規定することで成立するものだ。つまり、「きれい」ということばそれじたいで「きれいであること」を言い当てることはできず、これらはすべて「そうでないもの」との比較において成立する評価でしかないのだということに気付いたのです。もちろんこんなことは、差異性によって意味を成り立たせることばという体系の恣意性を考えれば当然のことなのかもしれないけど、やっぱりちょっとびっくりしてしまいます。物体でも感情でもなんでもいい、ある事柄をことばで指し示すとき、そうでない事柄の存在によって、はじめてそのことばも存在している。言葉のこの性質から、僕らはつねになにかを言い当てるということが厳密にはできない。普段そのようなことをおもわないのは、フッサールにおける「主観間のたしかめあい」、他者との会話による認識のたしかめあいが行われているから。だから僕らは目の前にあるリンゴが赤いということを信じている。また“赤”というのがこういう色だということを納得している。
だけど詩をはじめとした芸術についても、このたしかめあいは行われているのだろうか?つまり、こういう詩こそがすばらしいのだ、という一般に通用する認識みたいなものはあるのか。
たとえば、ジャズ世界の、というかすべての音楽世界における伝説的ベース奏者にジャコ・パストリアスという男がいる。このひとが天才であるということは疑いがない。というか、僕はそのことをほとんど確信している。この確信はどこからやってくるか?僕にはこの認識をたしかめあう友人などいない。数々のジャズ・ジャーナリズムでこのひとの伝説・評価を目にしてきたけど、僕にははじめて聴いたときからこの確信があった。これ以上の音楽家はどう考えても存在しえないと。他のベース・プレイヤーと比較してということでもなかったようにおもう。よい⇔よくないではなく、僕には絶対のような確信があったのだ。
熱あるし、へんなふうに結論を急ぎたくはないけど(むりに出す必要もない)、やっぱり芸術は、こういった「認識のたしかめあい」を超え出たところにあるのではないかとぼんやりおもう。しかしそれをもしことばにしようとしたら、僕らのてもとにある駒では、結局比較で成り立たせるしかない。ジャコがどれだけすごいベーシストなのか、いや厳密には僕がどれだけジャコのことをすごいとおもっているかを他者に伝えるには、また芸術的手段に訴えるしかないのだ。
とすれば、ことばを単位とする小説や詩といった表現手段は…なんとひねくれたものなのでしょう。夜勤明けでマラソンに参加するようなものだ。まあ、それが魅力といえばそうなのかもしれないけど。