第98話/武の懐
武を護るために技を捨ててすっぴんと化し、世にもぶざまなグルグルパンチでもって再びピクルに挑んだ烈だったが、相手の動きに合わせて反射的に出てくる技はまぎれもなく武術の洗練されたそれだった。困惑する烈の背後に立ち、語りかけるは、いっぱいいっぱいになって見るも無残な烈永周とは対照的に悠然とテカり輝く烈“海王”だった。
「オマエだよ烈
オマエが目指すオマエ…
オマエがなりたいオマエ――
烈海王そのものだ」
幻影はそう語る。巨大な理想形は烈永周を「むぎゅっ…」とばかりに優しく抱きしめる。
「武を護るため――
武をかなぐり捨ててのグルグルパンチ
ところが…武はオマエを離してはくれぬ」
(むぎゅ…)
「委ねてみろ…
4000年を背負うなどと構えずに…
武を護るなどと気負わずに…
身をまかせる…
そうでもしなけりゃ…
背負うなどとてもとても…」
幻影の声は内側でこだまし、襲い掛かるピクルも目に入っていないかのように、烈の存在感は薄くなっている。しかし全存在を武に委ねた烈はこれまで以上に切れの良い動きを見せる。無意識にありながら、武と一致した烈という存在は、カウンターのタイミングも急所の位置も正確に把握し、顎、金的、顔面への後ろ廻し蹴り、上段廻し蹴り、そして足指で髪をつかんで引き落とし、虎王のように下から迎える逆足の膝蹴り、というきわめて烈らしい、芸術的な技を決めていく。思考停止にみずから陥ることで、不純な“ことば”を除き、烈海王の含む“武”そのものとなった烈は、ついにピクルのダウンを奪った。ストライダムたちも鼻の穴をおっぴろげて大興奮である。
なんとなく、眠りながら無意識に蚊だか蝿だかを叩いて菩薩拳に目覚めた独歩のエピソードを思い出す。鍛練の先にある永遠の0.99999…が「1」になった、ってやつです。独歩の正拳がそれと知らず菩薩拳に近づいていたように、烈はストイックな厳しい稽古の果てに、みずからの理想形とほぼ一致するまでになっていたはずだ。であるからこそ、彼のばあいは「委ねること」が「背負うこと」と等しくなるのだ。ふつうのひとが…つまりどの角度から考えても納得できるような努力を重ねているわけではないひとにとって、このような考えかたはとても危険なものだ。烈ばあいは、その全存在を中国拳法に置き、また根拠に基づいた強い自負心を抱いていた。ピクルという未知があらわれたとき、彼があそこまで興奮し、燃えたのは、強いということよりむしろ未知であるところに魅力があったからだろう。だって、範馬一族やオリバなんかにはあんなふうにならないもの。みずからが盲信してやまない中国拳法が、相対ではなく絶対であるということを確認したかったのだろう。バキに登場する中国人には皆そんなところがある。たとえば大ライタイ祭の一回戦敗退組についていえば、実力云々以前にまずそういう、視野の、世界像の狭きに敗因があったようにおもう。彼らにとって中国拳法はまぎれもない宗教であり、真理なのだ。もしこれの無能をいきなりつきつけられたとしたら…。これはまさにフロイトが「幻想の未来」に書いていた事態、無知な大衆が神の不在を知ったら、という危惧にまっすぐにつながるものだ。むろん烈は、無知な(これは「中国拳法的に」という意味だから、つまり無力な)大衆ではないから意味がちがってくるけど、ショックは大きかったはずだ。
しかし神、中国拳法の具現は言うのだ。なんにも考えずに信じろと。くりかえしになるが、だからこの思考法は、神に迫る鍛練を積んだ烈だけに許されるもので、パンピーがこれをやるのは怪我のもとだ。神なんていないじゃん、とテレビ局に苦情の電話をかけることになるだろう。
もっと直截的な言い方をすると、鍛練の先に完成があるのではなく、完成にふさわしい姿のそれにいかに追い付き、一致するかということになるのかな。独歩だって、なにも眠りながら虫を叩くことで技を完成させたわけではあるまい。すでにそれだけの稽古を重ね、アビリティとしてはマスターしていたはず。自分自身に追い付くこと…。そのくりかえしでひとは成長していくのかもしれないなー。そしてここでは、考えずに委ねてみるということがそれにあたるのだろう。背負おうとして背負うものではなく、結果として背負うものなのかもしれない。
「武の懐へ」の文字とともに烈が見開きで膝蹴りを決めた背景には胎児の絵が描かれている。武という概念、そのものの根源的本質的な具人といったところか。『だったらイケるぜ!』管理人さんが「イデア」と書かれていますが、まさに。烈のイデアと武のイデアが一致した姿が、最後のコマの烈なのかな。
・だったらイケるぜ!↓
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