
私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)
「キャロル・キングとリーバー&ストーラー抜きのアメリカン・ポップスが想像できないように、マルクスとフロイトとフッサールとレヴィナスとレヴィ=ストロースとデリダを抜きにした哲学史は想像することもできない――
ユダヤ人はどうしてこれほど知性的なのか?そして反ユダヤ主義の生理と病理とは?人類史上の難問に挑む!」
帯より
未知の分野について学ぶときは新書に限る!というわけで本屋をうろついて最初に目についたのがこれでした。内田樹のことはもちろん知っていたし、本作は小林秀雄賞を受賞してるということもあって、最初はこんなところだろうと。おもしろくて一気に読んでしまいました。
「はじめに」で著者は、「なぜ、ユダヤ人は迫害されるのか」という問いと「人間は愚鈍だから」という回答が孕む宿命的なループを回避するために、問題の次数をひとつ繰り上げ、「ユダヤ人は迫害されるべきと考えるひとがいるのはなぜか」という問いを設定しています。これ以降、本書ぜんたいを通してこのような著者の理性的な冷静さはずっと保たれていて、「私家版」と冠されながら、読者をきわめて公平な立場と見解に導くことに成功しているとおもいます。
通して感じられるのは、くりかえしになるが著者の科学的注意力。これは筆者がユダヤ人を論じるために採用した姿勢であるというよりは、ある理由から我々には構造的に説明不可能なこの事態を、その周囲を巡って円を描くことである一点として規定しようとするような慎重な態度の必然だろう。それは、ある言葉をもってユダヤ人について語るということが原理的には不可能なのだ、という立場からきているのです。P162に筆者は書いています。
「ユダヤ人問題には『最終的解決』は存在しない。(略)。いかなる政治学的・社会学的提言をもってしてもユダヤ人問題の最終的解決に私たちは至り着くことができない。(略)。
私にできる誠実な態度は、『これは解決が困難な問題である』というタグを付けて、『デスクトップ』に置いておくことである。『デスクトップ』に置いて『目障り』なままにしておくことである」
第一章は「ユダヤ人」ということの定義について。知的興奮を誘う論理的な手法で、ユダヤ人の定義とは国民名でも解剖学的な人種でも信仰でもないということが明らかになる。ユダヤ人とは、ユダヤ人を否定する人間に媒介されてできたなにものかなのだ。
「私たちの語彙には、『それ』を名づけることばがなく、それゆえ私たちが『それ』について語ることばの一つ一つが私たちにとっての『他者』の輪郭をおぼつかない手つきで描き出すことになる。私たちはユダヤ人について語るときに必ずそれと知らずに自分自身を語ってしまうのである」
ジャン=ポール・サルトルはこのユダヤ人の定義について、彼らが被る“状況”がもたらしたもの、すなわち「ユダヤ人を否定するもの=反ユダヤ主義」との差異性によって相互規定されたものだとする。ユダヤ人という「もの」は存在しない。ただキリスト教徒たちがスケープゴートとして選び、それをそう呼ぶだけの幻想なのだと。
しかしこの論理では、ユダヤ人という概念の起源…ユダヤ人について考え、語るときによりどころとなる核のようなものが指定できない。論理的に正しい同語反復の永久ループだ。ユダヤ人を規定する反ユダヤ主義は、「ユダヤ人」という言葉を手にしたことで、これまで説明できなかった“なにか”を指して言えるようになったはずなのだ。それはなにか?
ひとつの結果にはひとつの原因が対応する、という十九世紀的なある思考法を、分子生物学者のルドルフ・シェーンハイマーは「ペニー・ガム法」と命名した。自動販売機にペニー硬貨を入れると、ガムが出てくる。これをして、ペニー硬貨がガムに変化した、と推測する、単純な方式だ。もちろん世界はそんなに単純なものではない。仮に世界がマトリックスのメロビンジアンのいうように一本の因果関係で成り立つとしても、あるくくりで規定された瞬間、世界は不確定な影響をおよぼす外部を持つはずだから。
ペニー・ガム法は、帝国の瓦解といったような事件に対応して、「見えざる工作者」を想像させて、陰謀史観を導く。“悪いできごとは、ある悪の仕掛け人(=オーサー)によってもたらされたはず”という推論が、「ユダヤ人」という“物語”を呼びこんだのだ。
各分野にわたるユダヤ人の過剰なほどの知的資質はどうしてもたらされたのか。それは彼らがそれ以外の集団からは特異とみなされるふるまいを日常的に行っているからだ。
「ユダヤ人が例外的に知性的なのではなく、ユダヤにおいて標準的な思考傾向を私たちは因習的に『知性的』と呼んでいるのである」
ではなぜユダヤ人たちはそのような思考法にあるのか。筆者はサルトルの社会構築主義的な“状況”が規定するユダヤ人と、筆者の師であるユダヤ人のエマニュエル・レヴィナスの“聖史的宿命”という観点を比較論考し、“遅れてきたもの”という概念を手にする。
先に書いたようにサルトルの論理ではこの事態を説明することはできても、彼らの起源…それじゃあ結局、そんな状況になんでユダヤ人は陥ったわけ?という問いに答えることができないと、サルトルの圧倒的な洞察力を認めながら、筆者は考える。
他方でレヴィナスは、ユダヤ人の時間意識を「アナクロニズム=時間錯誤」という語で説明する。ある罪深い行為を犯したとき、ひとは有責意識を抱く。フロイトの有名な「原父殺害」の物語…おおむかしのある子供たちは、強権的にじぶんたちを支配する父親=最強の男というものを団結して倒し、これを食することで体内に取り入れ、みずからの一部とした。このことに彼らは責任を感じたはずだ。そのために、“殺人”や“カニバリズム”という行為は社会的なタブーとして文化的意識に内面化され、またひとびとは罪悪感を緩和し殺された“原父”を宥めるために神話的な記号としてこれをまつることにした(=トーテミズム)。すべての“神”はこの“原父”を原型として高められたものにほかならない(あたりまえのはなしだけど、これはある特定の家族集団におこった歴史的事実とかいうはなしではなく、推測にもとづいたすべての状況をことばとして一般化した物語です。少なくとも僕はそう理解しています)。
しかしレヴィナスはいう。人間は不正を犯すより先にすでに不正について有責なのだと。
善行が報われず、ひどい災難にあったとき、ひとは「なぜ神は救ってくれなかったか」と考える。しかしユダヤではこれは幼児の問いである。それはたんに罰を恐れているだけであり、本人の“善性”とはなんの関係もない。ここでは(ユダヤ的思考法では)、じっさいに過去にある罪が犯されていたかは問題ではない。そのある“罪”が決してあってはならないことであるために、逆に彼らはこの罪を「偽りの記憶」として設定し、すでに責任ある存在としてみずからを規定し、善性を保証するのだ。
「勧善懲悪の全能神はまさにその全能性ゆえに人間の邪悪さを免責する。一方、不在の神、遠き神は、人間の理解も共感も絶した遠い境位に踏みとどまるがゆえに、人間の成熟を促さずにはいない」
このため、彼らはじっさいには存在しない「ある過去」を設け、“遅れてきたもの”としてみずからを規定し、また存在しないにも関わらずこれを事実として受け入れることで有責性を基礎づける。ユダヤ人たちはこの意識のもとにふるまっていると、筆者は(レヴィナスは)考える。遅れてやってきた以上、この場所にふさわしい人間であると証明しなくてはならないという、ユダヤ人以外にはまったく見られない奇習(彼らにはふつう)的な思考システムのもとに、彼らはアイデンティティを確立させるのだ。
死ぬほどつたない解説で、本当に申し訳ない…。言うまでもなく、こんなかんたんにまとめられるようなはなしではないので、これで少しでもなにかが伝わるようなことがあるならこんなブログ記事に留まらずぜひ本書を読んでみてください。とにかくおもしろいので。