第94話/小細工
烈を前にしたピクルが、はじめてファイティング・ポーズをとった。現役時代の山下泰裕みたいに両手を広げて、獣らしくからだの大きさを誇示する。大きさ=パワーであるとするなら、いかにこの手の生物根源闘争で“ちから”が重要なのかということがわかる。
烈海王も、まずは力比べをしたいと口にし、みずからピクルの打撃の間合いに入っていく。烈の闘争心を感じとり、かつてない緊張感で警戒していたピクルは、すぐさま力任せの掌打を喰らわせる。両足を開いて踏ん張る姿勢にあった烈は、完璧にガードしながらも、足先で線をひいてに後ろにはじきとばされ、余ったエネルギーを逃がすように体を浮かせて闘技場のはしにまでふっとぶ。
力の勝負が無理であることを確認した烈は、“小細工”と称する洗練された技術を次々に叩きこむ。転ばされ、正面から蹴りを食ったピクルの目には涙が…、みたいな展開。
いや、涙は…烈が髪の毛で目潰ししたからじゃないの??
これまで、力対技という板垣世界の闘争二元論の、“力”側の究極がピクルだというふうに書いてきたけど、ちょっと意味がちがうかな、とも最近おもいまじめました。というのは、これまでの力というものの概念も、洗練されたトレーニングで手にされた、ある種の“技”なのではないかともおもうから。もちろん、花山の超握力や勇次郎の、郭海皇いわく“天然戦闘体型”なんかは例外、ギフトと考えるべきものなんだろうけど…。それ以外のいわば“筋力”が、ある種類の意識的な鍛練のさきにあったことはまちがいない。それは“文明”という技術…。
そしてピクルのあの、性器丸出しの立ち居振る舞いは、予感させます。他者の不在を。
ピクルの時代に他人というものがいたか、言葉にかわるコミュニケーションの道具があったか、それはわからない。しかし、人間は直立歩行をはじめたことで、あらわになった性器の保護を必要とし、これがモロに見えているということに羞恥心を覚えるようになった。しかるに、ピクルはこれを隠そうともしない。保護を必要としないくらい強い、というのは理由にならないとおもう。保護していないということそれじたいが、羞恥心を呼ぶはずだから。(たぶん)。となれば、ピクルのまわりには同様の姿をした生き物、すなわち人類がいなかったんではないかと考えられる。じぶんとよく似た他者がなければ、自己という概念もおそらくは生じないだろうと推測できるから。つまり、恥じる相手がいないということ。塩漬けでもなんでも、あの物語世界でピクル以外に原始人が発見されないのは、だからなんらかの理由で全滅したからではないか。つまり、ピクルは「アイ・アム・レジェンド」のロバート・ネヴィル状態なんじゃないか。だからピクルは、烈たちを目の前にしても、同類(厳密にはピクルでこの人類は絶滅しているはずだから、たまたま同じ進化の道をたどったというだけなのだが)と知覚していないとおもわれる。
そうなると、ピクルには最初から他者という概念がないんじゃないかということになってくる。なにが言いたいかというと…すべての闘争、またそこに向かう鍛練は、同類・異類問わず、少なくとも他の生き物の存在を前提にしているはずだ。となれば、ピクルのおもう闘争は、そもそもの最初から、烈やバキたちのそれとは異なることになる。仮にいまピクルの腕力がバキ世界一としても…オリバのそれとは成り立ちからしてちがうはずなのだ。
うまく言えないなぁ。たぶんこれじゃ半分も伝わってないよなー
とりあえず、これまでの力の概念とは異質なものかもしれない、くらいの感想にとどめておきます。