最近よく眠れる、tsucchiniです。
昨日なんて…夜勤から帰ってきて、映画いっぽんみて、ちょっと本読んで、夕方くらいに布団に入ってから、たったいままで寝てました。つまり十時間くらい寝たことになるのです。これはひとつきくらい前までの僕の、四日ぶんくらいの睡眠量です。寝過ぎてあたまいたいです。
そのかわりわけのわからない、ほとんど異常におもえるような夢もたくさん見ます。これは眠れないときも同じですが…。内容はだいたい忘れてしまう。うーん、さっきまで、起きてから一分くらいは、記事にしようとするくらい正確に覚えていたのだけど…。いまでは亀田史郎が出てきたことしかわからない…。
ちょうどフロイトを読んでるからいうわけじゃないけど…。夢には、じぶんがどのような無意識に与しているかが具象されると言いますが…。じぶんの精神分析は気持ち悪いけど、なんだかんだほざいても、いろいろ不安なんだろうなぁ。フロイトはいいます。
「わたしたちに負わされているこの人生はつらく、あまりに多くの苦しみと、失望と、解きがたい課題をもたらすのである。人生を担うためには、鎮痛剤が必要なのだ。こうした鎮痛剤としては次の三種類のものが考えられる。自分たちの惨めさを耐えられるものにする強力な気晴らし、惨めさを軽減してくれる代償的な満足、惨めさを感じなくさせてくれる麻薬である」
『幻想の未来/文化への不満』(光文社古典新訳文庫)より/中山元訳
人生の無意味をあえて認めてしまい、受け入れることで、成長性に生を見出だすというのは…どれにあてはまるのだろう?
この本でフロイトは、宗教というものが文化的な神経症であるとして、これを批判をしています。人間は理性的な動物であるが、同時に激しい欲動にも支配されている(殺したい、奪いたい、遊びたい、飲みたい、ヤりたい…)。文化のもとに社会を成立させ、生活を営むためには、抑制が必要。たとえば、代表的に禁じられた欲動、近親相姦、カニバリズム(人喰い)、殺人は、人間の原初的な欲望であるという心理学的根拠があるが、すでに内面化が果たされている。だから、そんな欲求なんかあるもんか、と僕らは否定するし、文字を見ただけでもぞっとした気分になる。しかし未だ内面化のされていない欲動はどうなるか。この三つの欲動が禁止されたように、ある強制によって、僕らはこれを抑制する。これが社会的秩序としての文化である。この抑制がもたらす不満・不安感を、意味があるものとして、宗教は回復する。このことの有効性はフロイトも認めている。
しかしこれはあくまで「幻想」である。理性に背き、「幻想」に依存するというかたちは、人類が成長する過程で克服されるべきであるとフロイトはいう。また、“宗教”のみをこころのよりどころとしてきた無知な「大衆」が、これが信じるにあたいしないと知ったときどうなるか、とフロイトは危惧する。だから、信仰から、理由も理解せずに文化の強制にしたがうのでなく、必要なことなのだということを示すべきなのだというのだと。
わりと厚い本なので、読んだところまでをついでにまとめてみました。他にも、自我の発生についてなど、興味深い点がいっぱい。読み終わったら書こうと思います。気力があったら…
僕の人生の捉えかたも…たぶん「幻想」に与することで成立するものだろう。理性的ではあるけど。だからフロイトのかんがえに全面的に賛同するわけではありません。幻想は必要だとおもう。ただし、いつも言っているように、それが高い意識と自覚のもとにあるという条件つきで。
まあ、読み終わる前にこんなことを書くのはフェアではないので、このくらいにします。
あれ、おかしいな。眠くなってきた…