いつかの風邪が、治ると見せかけてぜんぜん治らない、ツッキーニです。
昨日マイク・バンディッツの記事に書きそびれちゃったことなのですが…。オーディションでラッパーを選出するというのはどうなのか?あるいはこのはなしは、なにをいまさら、というはなしかもしれないが。
以前に書いた気もしますが、ラッパーであるということは、じぶんがじぶんであることの表現、難しくいえば交換不可能な自己=実存ということの究極的な主張です。一般的な「うたもの」のように(もちろん一概にはいえませんが)、ある「うた」があり、それをうたう(かたちにする)「うたいて」がいて、両者が相互作用的に、補完的に存在する、というのとはちがう。ラップはラッパーじしんのからだから文字通り吐き出されたことばであり、からだの一部であり、くさいはなし抜きで、魂であるわけです。意外に理解しづらいことかもしれませんが、良心的なファンなら、これをカラオケでうたうことのアホらしさを感じたことがあるはず。普通のうたものなら問題ない。ある「うたいて」がその「うた」をうたったようにうたうだけのはなしだから(そこにもじつは「消費者」という問題はあるのだが)。しかしラップは、音楽であるまえに、自己主張、自己表現であるわけです。これはヒップホップ原理主義とでもいえばいいのかな…。
しかしこういうことを認めつつも、僕はそろそろ、日本語ラップというものが、ひとつの自己表現の手法として、それじたいで確立してきているのではないかともおもいます。たとえば妄走族の般若みたいな…普通に街を歩く不良がそのままラッパーになったようなひともどんどん出てきているわけです。これは…彼がラッパーになるべくしてマイクを握ったというより、自己表現の手段としてラップを選んだ、といったほうが近い現象のようにおもえます。いや、もちろんそれぞれ「なるべくしてなる」にはちがいないのだけど、なんというのかな、これまでにさまざまなラッパーによってあらゆるスタイルが試されてきて、だんだんに技術体系のようなものもできてきて、「技術」として…「ラップ」という事態が、独立しはじめているとおもうのです。日本語ラップ創成期では…ラップに興味があるという程度でも、ほとんど驚異的なことだったはず。いわば選ばれた者の領域だった。ある程度の音楽的知識や語学力はいま以上に大前提だった。しかしそういう段階からはもうそろそろ脱出し
はじめているのではないか。「すべての人間は自己表現をできるという意味で、潜在的にラッパーである」ということが、比喩でも誇張でもなく、現実的なはなしになってきているとおもうのです。これは…ちょうど近代文学の流れにも似ている。明治から昭和にかけて…文学は、生活に余裕があり、教養にあふれた遊民のための表現の道具だった。しかし現在では、好むと好まざるとにかかわらず、文学は広く一般のものとなっている。これには良きことよりむしろ悪いぶぶんのほうが大きい。読み手も書き手も合わせた、信じられないほどの意識の低さは、まあ僕もひとのことはいえないとしても、かなり危機的なことだとはおもう。ヒップホップにも同じことが起ころうとしているのではないか。
なんだろう…僕じしん、m-floは大好きなわけですが、バーバルのスキルは認めつつも、どこか大声で「好き」と言えないようなところがずっとあったわけです。現在の文学同様、ほんとうの「共有」を手に入れるためにこのバランス感覚は不可欠だと認めつつも。これはたんに彼らの音楽性…共有の土台としてのエンターテイメント性のためかと思っていたのですが、もしかしたらこういうことなのかもしれない。かんたんにまとめちゃえば「スキル主義」ということなんだけど…。「表現のいち手法としてのラップ」ということが、これまでの日本のヒップホップ・シーンより次第しだいに強くなってきているのではないのかなー。
オーディション云々について、もちろんここではラップに優劣がつけられているわけで、そりゃどうしようもない有象無象もなかにはいたろうけど、それでもなかには落とされたひとがいたはずで、「生身の表現」であるラップに優劣がつくということは、あるふたりの人間についてその人間性で優劣をつけることが可能ということになってしまう。そうじゃないですよね。もしこの「スキル主義」ということが確立されてきているのなら…これで選別されたとしても、少しもおかしいことはない。
しかしなぁ…このスキル主義とヒップホップ原理主義が折り合うことは永遠にないだろうなーとはおもいます。どちらがいいとかではないとおもうのだけど…。リスナーも、ここからさきはもっと慎重にいかないといけないなー。わけのわからない、中身の伴わない軽業ラップとか、スキルもなんもない気合いだけのハーコーラップとか、これからどんどん出てくるだろう。最近はどっちでもないようなものもちらちら出始めていますし。高度なスキルに走るのでも、生身の自己吐露に命を賭けるのでもなく、たんに「ラップ」という形式だけ借りたようなもの…。こころが痛いけど、こういうものほど現実にはよく売れる。ケータイ小説然り。受け手の「意識」が低いから。あくまで「商品」、「おもひで再生装置」としてモノを捉えているから。ラップ「を」聴くのでも、小説「を」読むのでもない、たんにじぶんの記憶を再生して、かんどうするだけ。ここには、ひとつも「表現の共有」はない。むしろそんなものは邪魔だろう。
とはいえ、本人たちがそれでいいということならなにもいえないわけですが…。ここではなにより主義の異なる両者が、むしろ同志として、バランスよく影響を与えていくことが望ましい…。まあ理想論ですかね。