『偶然の音楽』P・オースター | すっぴんマスター

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■『偶然の音楽』ポール・オースター著/柴田元幸訳 新潮文庫

偶然の音楽


「妻に去られたナッシュに、突然20万ドルの遺産が転がり込んだ。すべてを捨てて目的のない旅に出た彼は、まる一年赤いサーブを駆ってアメリカ全土を回り、〈十三ヶ月目に入って三日目〉に謎の若者ポッツィと出会った。〈望みのないものにしか興味の持てない〉ナッシュと、博打の天才の若者が辿る数奇な運命。現代アメリカ文学の旗手が送る、理不尽な衝撃と虚脱感に満ちた物語」
裏表紙から


久しぶりに、優れた「小説」というものを読んだ気がした。やっぱり好きな作家。アメリカ人は…他の追随を許さない映画産業の興盛を見ればわかるように、このようなポップ感覚、エンターテイメント性(=共有の土台)がとっても秀でている。というのはつまり、それらによる「吸引力」が頭抜けている。しかしこういうとき僕たちは「共感」に走りがち。だからこそ、受け手には非常な注意が要求される。


ふとしたことでポッツィという博打師と出会ったナッシュは、偶然性に身を任せるかのように、それじたい偶然性に満ちたポーカーで、フラワーとストーンという、宝くじの偶然から大富豪になったふたりと勝負し、そして敗北する。ふたりの富豪はゲームの借金を、彼らが気まぐれで計画していた超重量の石による壁づくりによって返済するよう提案する。ナッシュとポッツィは、なんの意味もない、ただ野原に長々とよこたわるだけのこの仕事に着手する…。

『ムーン・パレス』でもテーマになっていた“偶然性”ということが、ここでもやはりおはなしのまんまんなかに通っている。必然と表裏一体、ばあいによっては区別のつかない、偶然というもの。しかし作中の彼らからすればそれは唐突な偶然でも、小説世界の外側にいる僕らからすれば、それは意味をもたない。幽閉、それじたいとしては意味をもたない、石を積み上げるだけという仕事、ストーンが趣味でつくっていた小さな街の模型、マークスという監視者としての他者(限定的世界とその外側とを行き来するメタ的な存在)、ポッツィという互いに規定しあう存在としての他者(要するにふつうの他者の象徴)…。筆者はちょっと露骨なほどにヒントをばらまいている。これはまさに人生そのもの…、人生の模型である。ラスト近くの、ティファニーという名の、「外側」からやってきた娼婦とのやりとり…。これなんかまるっきりじっさいの恋人たちの関係の、冷笑的な模型だ。しかしこのようにちょっとやりすぎなくらい露骨なのは、筆者のさらなる作為のように思える。つまり…『ムーン・パレス』やなんかで“偶然”ということをテーマに掲げ、模型としての世界を提示してみせたのちに…アメリカの文壇からどう評価されたのかは知らないけど、このスタイルを既知の、いわば前提のものとしてしまい、さらにさきにすすもうとしているのではないか。(これは1990年の作品なんですが…)


僕が気になったのは、なぜポッツィは痛めつけられねばならなかったのか、ということ。大金と孤独を、わけのわからない世界のシステムみたいなものからひょいと手渡されたナッシュは、車に乗って延々と終わりのないように見える移動を続けていた。居場所をもたず、自己を規定する“世界”に背を向けるようにして旅をする。そこにぼろ雑巾みたいに負傷した痩せっぽちのポッツィが現れる。なりゆきに任せてみよう、みたいなナッシュのおもいは、ポッツィのポーカーの腕に向いていく。ナッシュは金を貸してやり、富豪との勝負をすすめる…。

ナッシュにとって、ポッツィとはなんなのか?“偶然”を資本に金を稼ぐこの憎めない若者に、ナッシュはなぜこれほどまでに惹かれたのか。
おもしろいのは、ふたりが出会って以降、両者はお互いのことをなくてはならない存在としていることだ。勝負の途中、ナッシュが席をはずしたことをきっかけに、調子のよかったポッツィは体勢を崩し、結局負けてしまう。またポッツィがいなくなったのちのナッシュからは、しっかりとした意志や、強さが失われる。お互いにとって、ポッツィは“強さ”であり、ナッシュは“運勢”であったのだ。両者は身体的にも精神的にも、ないところを補う、みたいな単純なはなしではなく、まさに存在を規定しあうような、他者の代表だったのだ。ポッツィの存在はナッシュをじっさいの“世界”からの果てしない逃避行から解放し、ナッシュの存在はポッツィを危なっかしい、不安定な状態から拾い上げた。別れたとたんに、ポッツィは再びずたぼろになってしまい、ナッシュは車へと戻っていった。
ナッシュがポッツィを強みとしたのは、みずからが翻弄されるこの偶然というものを、この若者が武器にしていたからだろう。またポッツィがナッシュを“ツキ”としたのは、この理不尽な偶然性というものを一身に背負う存在だったからか。たぶんこれはどうとでもいえるとおもう。重要なのは…ポッツィありきのナッシュ、またその逆、という関係が、この閉鎖された限定的世界の内側で、「他者との差異性」から自己を規定し、それぞれの存在を保っていたということだ。これが失われれば、ひとは自己を見失う。自我とは、それじたいとしては機能しない。他者との「ちがい」抜きで、自己は確定し得ない。いってみれば人間がふたりしかいない世界というのが、あの場所だったのだ…。両者のたどった道は、だから必然だった。そういうことなのかもしれない…。


だから結末はかなり衝撃的。ショッキングといってもいいほど(「解説」で小川洋子は、「文学的な裏切り」と書いています)。このブログは本の紹介ではなく、批評をその目的としていますから、ネタバレは基本なのだけど…。これは書けない。どんなに無神経な読者でも、すさまじい、やり場のない虚脱感を覚えるはず。なぜならこのおはなし全体が…人生そのものの比喩として考えられるから。ぶつぎりのように、ほとんど奪われるようにおとずれるこのカタストロフィは…あまりに衝撃的で、ショッキング。



ていうかごめんなさい、今回の記事ダメですね。もっと書きたいこといっぱいあったはずなんだけど…。時間かけて読んでしまったからか、けっこう忘れちゃってる…。やっぱりページ折るだけじゃ足りないなー。最初の感触が大事だから…。メモとる習慣つけようかな。