■『他人の顔』安部公房 新潮文庫
安部公房は太宰や漱石とともにかなりむかしから親しんでいる作家なのですが(僕のなかでは最大のターニング・ポイントである村上春樹よりもたぶん前)、同様にしていつまでたっても全作品読破ができない作家のひとりです。新潮文庫の小説だけでもやたら多いんですよね。随筆や論文なんかもいれたら、手に入りやすいものだけに限ったとしても読破なんていったいいつになるのやら。
「液体空気の爆発で受けた顔一面の蛭のようなケロイド瘢痕によって自分の顔を喪失してしまった男…失われた妻の愛をとりもどすために“他人の顔”をプラスチック製の仮面に仕立てて、妻を誘惑する男の自己回復のあがき…。特異な着想の中に執拗なまでに精緻な科学的記載をも交えて、“顔”というものに関わって生きている人間という存在の不安定さ、あいまいさを描く長編」
(裏表紙より)
この裏表紙解説には…誰が書いてるのか知らないけど、ときどきはっとさせられるんですよね。言い得て妙というか、ナルホドというか。まあ、たんに僕の読解力の問題なんですけど。「あがき」っていうのは、すごいな…。
全体の印象としては、いつもの安部作品同様、思考実験の色合いが強い。筆者の「顔」についての弁証法的な思考活動が、そのまま語り手の、思弁的にして実践的な葛藤=あがきになっている。「手記」という形式は、この思弁と実践をほぼイコールにしています。「顔」について深くかんがえるとき、僕らが必ず行き当たるにちがいないさまざまの論理は、この「文字の運動」のなかでほとんど漏れなく洗われているように思える。むろん、ここで筆者が「顔」に含ませている意味は、「他者」に対する「自己」でしょう。顔――他者の目にする(規定する)自己=自我そのもの…それを科学的な手段でもって作り出し、じっさいに顔のうえにはめこんでしまう。語り手は人工的に作り出された仮面の自分で使用して、自分の妻を再誘惑する。これはそのまま…内側の意識のみから、人間――人格を再構築することは可能なのかという問いにかえっていく。つねに他者との差異性=ちがいによって規定され(ここではまさに、「顔のちがい」というか明確なかたちになっている)、他者なしでは存在すらしえない「自意識=自我」というものを、まず「他者」の代表である妻(全体が手記という形式をとって、妻に「おまえ」と語りかけるかたちになっているのも、そのためかと。)の視線を前提にすることで約束とし、そのうえで、他者ではないみずからの手で作られた「自我」というものが存在可能なのかということが、ここでは試されているのです。“思考実験”といったのは、そういうことです。非常に高い知能をもった、文学者というよりは科学者に近いような、安部公房らしいやりかただと思います。筆者が東大医学部卒であることは、だからむろん彼の作風というか、表現の感触とかいうことではなく、この思考システムと無関係ではないはずです。(そういえば吉本隆明も理系でしたよね。)安部公房は、小説という、存在じたいがとてもあやうい芸術のなかで、理屈に基づく“説明”をしてしまうことがどれだけ危険か、よくわかっているのだと思います。彼がこのように“超現実”と呼ばれるサイエンス・フィクション的な手法を選択したのは、だから筆者じしんの、芸術家というよりは批評家としての要請のように思えます。僕らの住むこの“世界”によく似たもうひとつの現実で、表現を壊しかねないこの“説明”をやってしまう。裏表紙にある「執拗なまでに精緻な科学的記載」は、この現実の骨組みをなす設計図なのかもしれない。
はっきりいって、これを読み進めるのはひどく苦しい作業だった。たんに僕個人のバイオリズム的な問題なのか、あるいはこの本を手にしたことで生じた不安がぶくぶくと成長していったからなのか、とにかく苦しかった。決定的ではないのだけど、もはや疑いようのないなにか…それこそ主人公の「顔」のようにグロテスクな波動のようなものにつねに浸されているようだった。なにやら、まちがえて兄弟の下着をつけて学校にきてしまったような気分。これはまさに…筆者が描こうとした「存在の不安定さ」とまっすぐにつながるものだ。僕らはこれを読んで、「イキガミ」でもつきつけられたように絶望と虚脱が入り交じった妙な感じを覚える。この不安感は、安部公房の世界を体験するためには不可欠だし、またうまくそのきっかけをつかむことのできた証拠でもあると思う。
作中、主人公が、人類すべてにこの仮面がいきわたったらということをきわめてリアルに、演繹的に想像するところがあるが、これはおもしろかった。顔をみずからの手で選びとれるようになる、すなわち「交換可能な“自己”」という状態。現実に人格が入れ代わるわけではないから、これはとうぜんひどい混乱をうむ。しかしこの「顔」という概念が意味を失い、人間どうしのさまざまな境界線がよくわからなくなるという点は興味深い。匿名的存在としての人間…。誰もが考えつくように、これはまさにインターネット上の仮想現実におけるコミュニケーションのかたちにつながる。映画『マトリックス』は仮想現実を視覚的に具現したものだが、これがおしまいのあたりで「全人類オールスミス」となり、つまりぜんいん同じ顔になり、他者が存在しないために自己も意味を失ってしまったというのは(ネオは「自我」の象徴)、いまかんがえるとまさにこの「匿名性」を露骨に表したものだったんだな…。ちょうどいま手元にある『リディック』でも、ロードマーシャルという“神”の下に均質化されるネクロの兵士たちはすべて顔を隠し、「他者=自己」を破壊して匿名的存在となっている。この小説でも、「顔」はたんに「自我」の象徴ではなく、むしろ「そのもの」くらいに考えたほうがいいのかもしれない。
結末もおもしろい。書いていいかな?推理小説ではないし問題ないと思うけど、、、(というか、このやたら長い、つまらないひとりごとをここまで読んでるひとは、いるのだろうか…)。
主人公は仮面のまま妻を誘惑し、そして成功する。しかし妻は気付いていたのだ、仮面の正体に。彼が書いた一連の手記を読んだ妻は、このことを残した手紙を残して失踪する。妻は書く。
「愛というものは、互いに仮面を剥がしっこすることで、そのためにも、愛する者のために、仮面をかぶる努力をしなければならないのだと」
僕が言いたいのはこの妻の意見それじたいについてでなく、一連の弁証法的に語られてきた手記の全体が、さらに妻の手紙によって否定され、主人公が“書く”ということを超えた次の段階…すなわち“行為”にうつっているということ。ある“行為”を前にして、小説はこう結ばれている。
「だが、この先は、もう決して書かれたりすることはないだろう。書くという行為は、たぶん、何事も起こらなかった場合だけに必要なことなのである」
どこにも健康的というかポジティブな要素はないのに…この結末にあるすっと背骨を抜けるようなカタルシスはおもしろい。解説で大江健三郎は、「小説のこの段階における主人公の回心」が、「この小説全体を、《顔にぽっかりと深い洞穴が口をあけた》人間の存在論的な追及の総体」にかえるからだ、と書いていて、ナルホド、という感じです。