表現を共有するということ | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

このブログで僕がくりかえし書いている「共有」と「共感」ですが、これを追体験と再体験というふうに訳してもいいし、げんにそういう意味でつかってきたし、別にまちがってはいないのだけど、これだと言葉を通したときのみの、言語芸術だけについての概念みたいにも読めそうなのでいちおう補足しておきますが、これは音楽にもあてはまることです。表現という見地からいえばたぶんそのほかの、絵画や造形、写真なんかにもあたるんだろうけど、そっちはくわしくないので、ここでは考えません。

音楽による表現を「共有」するということも、文学同様、作品に比喩化された作り手の見る世界にコミットし、体験することだとして、僕はこれについて意識的であるかどうかというのがけっこう大事だ、みたいなことを前に書きました。だけどこれはじっさいには訓練の必要なことで、難しい。純文学やジャズ、優れたヒップホップなんかが、エンターテイメント小説やポップ・ミュージックと比べて売り上げや認知度が低いのも、むろんこのこととかんけいがある。なかにはその困難さを装飾にしてしまうひともいる。ジャズはムードだとして、ファッションとして聴きこなすのも、それはそれでありだろう。僕にもそういう時期はありました。子供のときだけど。それでなにか人生にかかわる問題が起こるわけでもないし、ちがう意見のひとに迷惑をかけることもない。むしろ僕みたいに融通のきかないかんがえをふりまわしてエラそうに威張ってるほうがよっぽど問題がある。しかしこの「ジャズはムードだ」説や、「好きなものを好きなように聴けばいいんだ」という消費者思想、これらは、表現を読む、という観点からいえば、やっぱりとんちんかんだと思う。このへんのかんがえは全部「共感」ということでまとめられる。結局自分のものさしでしかものを考えていないから、共感=ポップ視点で見てしまってる。表現者が鳴らす、あるいは書くものはすべて道具にすぎず、ただそれらを目に、耳にして、自分の記憶や感覚作用を体験しなおすだけ。このような姿勢では、演奏者の息遣いや体温、書き手の苦悩、ひいては彼らが目にしてからだで感じた世界をみることなんてできるわけない。これじゃ、表現の初期衝動…私の見ている「世界」と他者の見ている「世界」は、はたしておんなじものなんだろうか、というものが、否定されてしまう。
でも、なんとなくジャズって、純文学って、高尚っぽくてかっこいいな、オシャレだな。そうおもうひともいる。その先に、例の「ジャズはムードだ」という表現のファッション化がある。はっきりいってこれはいちばん悪いパターン。楽譜を読みちがえたまま何百回もピアノの練習してしまうようなもの。

じゃあなにか?そうやって死に物狂いになって作品に入っていかないかぎり、おれたちはそれに触れることもできないのか?それこそオマエのいう「停滞」なんじゃないの?「独我論」なんじゃないの?そういう意見も聞こえてきそうですが、これは、僕がm-floについて書くときにいつも気にしている「バランス」ということにかかわってくるんですよね。大なり小なり、ある種ニヒリズム的なものから、つねに表現は出発している。そうでなければ、ただ大声で「僕はあのひとが好きです」って、バカみたいに叫べばいいだけのはなし。だけど、どうしても、他者と私の世界は交差することがない。ただ言葉にしても、正確には伝わらない。あるいは伝わらないように思える。しかし、どうしても伝えたいことがある。だから「表現」する。ここに読者、あるいはリスナーが存在しないと、当然のことながら表現はどこにもたどりつかない。結果、いいんだ、おれの世界はおれのものだ、わかんねえやつがアホなんだ的な、ヒップホップ・アンダーグラウンドのダメなほうにありがちな独我論に陥る。表現は共有されることなく、結局本人のところにもどっていく。ニヒリズムは解消されず、むしろ深くなる。
現代のこの社会では、小説や音楽はすべて商品として機能し、売り上げにあらわれる数字は、事実はどうあれ、そのまま「共有」の結果となっている。いちいち読者に電話してどう読んだのか聞くわけにはいかないもの。それに数が多ければしっかり捉えるひとももちろん多くなるし、作り手じしんも、それがどんなものであれ、たとえば雑誌の評論やこういうブログなんかで自分の表現がもたらした結果をみることもできる。だけどこのあたりから、はなしはおかしくなっていく。つまり作るほうは「結果」の出ない「表現」をやめて、たんに「結果」そのもの、それじたいを求めて「共感作品」をつくりあげ、それを手にした受け手のほうも当然「表現」を探ることをやめて「共感」に終始し、いかに優れた表現があっても、すぐに感じとれる「共感」のほうを優先し、「結果」がもたらす消費者思想になってしまう。そしてまた作り手は「結果」じたいを求めるという、悪循環。これこそが、「ダメなものほどよく売れる」というこの現状のこたえ(いつものことだけど…例外はありますよ。売れていることじたいを否定しているわけではありません。むしろ肯定しています)。しかし表現は共有されないかぎり意味がない。まわりの何人かに、わかる者だけに伝わればそれでいいというかんがえもありますが、他者と「共有」したいという動機からは、それは、されればされるほどいいはずです。ここで重要なのが、意識的なバランス…。質の高い表現を、ポップに包んで、可能な限り多くの人間にばらまくのです。これが、少なくとも多くのひとと「共有」したいという立場からは、理想のかたち。全体の意識が低く、多くのひとがカラオケでうたうために音楽を購入するような現在では、これしかない。これは作り手にとっても危険なことだらけだけど…。

しかしこのようなバランス意識を最初から拒否しているものもある。たとえばジャズ。小説や、歌詞を含む音楽に比べて、ジャズはきわめて肉体的な表現方法をとっている。作り手側の分野、みたいなところもある。即興演奏という刹那的な形態じたいが、「世界そのもの」ほどに、再現不可能な、極端な一回性の表現だから。こういうものに対しては、さっき仮想敵のセリフにもあったとおり、『死に物狂いになって作品に入っていかないかぎり、おれたちはそれに触れることもできないのか?』というのがまさにあてはまる。リスナーに媚びない音楽…。僕はまさにそういうところにやられてしまったのだけど…。こうなると、いかに受け手=リスナーの意識が大事なのかということがわかるでしょう。「ジャズはムードだ」と割り切って聴いてしまっても、それはちがうよと、ジャズのほうからは指摘してくれないんです。ジャズファンにちょっと小うるさいタイプが多いのはたぶんそういうことなんだろうなー。受け手があって成立するという表現の現実が、ジャズはとっても厳しいんですよね。「表現を共有する者」としての意識が高いというか。って書くと小説は厳しくないみたいになるし、またバランスのとれていないものはダメだみたいにもとられそうだけど、もちろんちがいますよ。総体的に考えたらってことです。あくまで「共有」は作り手と受け手の一対一で行われるものですから…。

そうまでしてなんで「表現の共有」とやらに加担しなくてはならんのだって…それはまあ、好きだからなんですが…。ある種、ジャズには独我論の進化形みたいなところがあるのかもしれないなあ。ヒップホップの排他的なところ…さっきは悪く書いたけど、これもまたこの音楽の魅力だったりしますし。受け手側の憧れが先に立った共有、なのかもしれないなぁ。わかるやつだけわかればいいという、普通に考えたら停滞を呼ぶものが、もう究極なところまでいっちゃってて…。ジャズもヒップホップも、その誕生は、マイノリティの意識から出発していますしね。ニヒリズムじたいがエネルギーになっているというか。



僕の書くものは…はたして「バランス」とれてるんだろうか(笑)