フィクションとノンフィクション | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

ぼやーっとつったって自分の本棚を眺めていて、ちょうど表紙が見えている石川啄木の『ローマ字日記』(岩波文庫)の帯に、「時代の証言 ノンフィクションを読む」と書かれてあるのを見て、そうだ、このこと考えてみたかったんだと思い出しました。この時点で聡明なみなさんなら、ああ、ああいうはなしだろうな、と思いいたることでしょうけど…。つまり、フィクションとノンフィクションの、文字化されたさきに、受け取るがわにとってどんなちがいがあるのかってはなしです。

最初にこの括りの定義を明確にしておかなければなりません。

・フィクション=
1、作りごと。虚構。
2、作り話。創作。小説。

・ノンフィクション=
虚構をまじえず、事実を伝えようとする作品・記録映画。


この広辞苑の説明を読んでみても、これはおはなしの形式についての分類というより、「虚構」が混じっているかどうかの一点によってされる、たんなる区別だということがわかる。こうなると、事実をまったくそのままに書いた自然主義や、それこそ「日記」みたいなものは全部ノンフィクションということになるが、僕が考えたいのは、そういう区別そのものに、読み手にとってのなにか意味はあるのだろうかということです。


白い恋人…。賞味期限を偽って表記、って事件がありました。こういうはなし多すぎて、もう忘れちゃいそうなんですが。これまであの会社は、いわばフィクションとして、偽りを含めて商品を提示してきて、そしてウソが露見してからは、もちろん販売は中止されてしまったわけですが、この商品はノンフィクションとなる。ここで重要なのは、このように僕らの認識(括り)が変わっても、手にして口にするものには本質的な変化はないということです(もう口にはできないんだけど…)。ウソがばれようと、ウソのままであろうと、賞味期限を偽っていることにはかわりない。もちろんこの場合は、「賞味期限」というフィクションの部分が、これが食料であるために、商品の存在価値に関わるものとなるわけですが。

このあいだ読んだ『樹影譚』にも、似たようなはなしがありました。細部をはぶいて書くと、語り手の女の子が男に対して「昔整形をしたことがある」という「ウソ」をつき、男がその真偽をたしかめようとする、そういうおはなしでした。女の子を「おはなし」、男を「読者」としたとき、これはまさに、「整形」がフィクションか否かというはなしだということがわかります。さらに、この「暗号」を、筆者である丸谷才一が意図的に仕掛けたものなのか…そういうことを勘繰ることの不毛も、実はこのこととつながります。僕個人の意見として、「これは筆者が意識的に仕掛けたものだろう」みたいなことを書くことはありますが、それは作品を介して得られる本質的なこととはまた別で、ただの感想で、重要なのは「そのような解釈が可能である」ということなのです。


以前、友人何人かとドライブに行ったとき、『となりのトトロ』について話題になったことがありました。要するに、例の、「メイとサツキは死んでいる」というやつです。これについて、どこかのブログでどなたかが書いてらしたのですが、スタジオジブリ側は否定しているそうです。つまり、二人が死者であるという解釈のひとつの証拠となっていた「影の消失」などについて、単なる手落ちだ、というようなことを述べたみたいなのです。僕はこれを聞いて、正直なんでそんなこと言っちゃうのって思いました。作り手が、スタジオジブリがどう意図していたかというのは、もはやここでは意味をもたない。たぶんあそこまでビッグネームになるとあんまり冒険もできないんだろうし、このようなちょっと暗いような見方をされるのは会社的にまずい、みたいなこともそれはあるんでしょうが…。できればノーコメントでいてほしかったなー。いや、これじたいは出所不明の、あやしい情報ではあるんですが。


つまりなにが言いたいかって…、ある「物語」が、ひとつの「おはなし」として機能し、つまり生命を宿し、作り手と読み手のあいだに置かれたとき、それがフィクションであろうとノンフィクションであろうと、本質的なものにはかんけいない、ってことなんです。女の子が「整形」をした、とウソをついても、ここで重要なのはげんにその女の子がそこにあり、きれいであるということで、実際に整形をしたかどうかは、女の子の「きれい具合」にはかんけいないんです。もちろん、これが自分の恋人だったらそれは昔の顔を知りたくなるというのはしかたのないことだけど。それでも、僕がその女の子を見てきれいだとか好みじゃねえなとかおもうことそれじたいと、「げんに整形が行われたか」というのは、無関係なわけです。それは、たんなる気分の問題。そしてさらに、『樹影譚』という小説からはそういう暗号が読み取れ「得る」、だいじなのはこのことで、ここでは作者が意図しようとしまいと、どっちでもいいんです。もちろん、「読みが浅い」というのはあります。いわゆる「
読めてない」ってやつ。こういう言い方をすると、物語の背景には読み取る「べき」普遍的な真理みたいなものがあるような感じになるけど、この現実の世の中をして、あらゆる哲学者たちが人生をかけてさまざまな「真理」を提示するように、こたえはいっぱいあってもおかしくない。しかしそれはたんに、「あるものごと」についての解釈のちがいであり、「読めてない」っていうのはこの「あるものごと」を見つけることすらできていない、ということです。ひとにはひとそれぞれ、読みかたがある…これは誰だって直感的におもうことで、好きに読んだらいいってのは僕もわかりますが、正直なことを言わせてもらえば、そういうことをいうひとはたいてい自分の認識を疑うことを知らず、「読めてない」ばあいが多いと思います。それはオマエのことだって意見も聞こえてきそうですが…(笑)それでもいい、浅いか深いかなんて知ったことか、これはオレの感性であって他の誰のものでもない、そういわれちゃうと、そうですか、あなたがそれでいいんならお好きにどうぞ、となってし
まうんですが…。それでも、結局それは表現を共有することのない、「消費者」の立場を出ないものだと僕は思います。


ずいぶんはなし飛んだけど…、でも、「現実がどうなのか(これは筆者の意図したものなのか、彼女の美貌は整形が与えたものなのか…)」を知りたくなるというのは、さっき気分の問題と書いたけど、だからこそやっぱり気になるものですから、それじたいは非難しません。というか、むしろよくわかります。ただ、その「現実」とおはなしの本質をつなげて考えてしまうのは、ちがうと思います。筆者がそんな意図はないと言ったからといって、そういう見えかたができるという事実は変わらないわけで…。だから、できれば作者にはノーコメントでいてもらいたいんだよなー。どうやったって、おはなしのうえで作者はやっぱり「神」だから。