「共有」と「共感」についてはくりかえし書いてきましたが、もっとつっこんだかたちで、ないあたまを駆使して、このことについて考えてみたいと思います。
これまで書いてきたのは、「共有」と「共感」では、ものごとを受け取って、感じる「場所」がちがうということでした。(もちろんこれは僕がかってに使っている言葉ですので、一般的にそうであるわけではありません)。すなわち「共感」は、ものごとが受け取り手の記憶に作用して彼の内に起こす再体験であり、「共有」は、どんなかたちであれ、表現者の呈示した“世界”を追体験させることであると。そして「表現」の仕事というのは、それを受け取る側に共感を起こさせることではなく、体験を共有させることだと、まあ、いろいろ反論あるかとおもいますが、とにかくそういうはなしでした。
また下世話なたとえで申し訳ないのですが、わかりやすいので…(僕が)。ある男の友人が、飲み会に来ていたひとりの女の子のことをかわいくね?かわいくね?と言ってきたとします。実は僕のほうも、彼に言われる前からその子のことを“かわいい”と思っていました。だから僕も、そうだな、かわいいな、と頷きます。だってかわいいんだもん。見りゃわかるでしょ。『ライ麦畑』のホールデンがよく、大好きな妹や弟について、「君も気に入ると思うよ」ということを言いますが、そういうこと。
しかし、考えてみればわかることですが、「かわいい」という言葉は、使用頻度のわりにひどくあいまいなものです。たとえば、僕の友人は白い肌が好きで、たんに彼女の肌の輝きに目がくらんでため息をついているだけかもしれず、いっぽうで僕は、彼女の顔のつくりが好きで、肌なんかどうでもいいと思っているかもしれない。同じ「かわいい」ということばで括られながら、僕らが見ているものはまったく別なんです。これって、すごく不思議なことだとおもいませんか?僕らは、うむむ、ギザカワユスと、同じ言葉で納得しあっているのに、厳密には、お互いの感じ方を「じっさいに」確認することはできないのです。口で確認すればすむことじゃないか、どこが好きなのか訊いてみればいいじゃないか、と思われるかもしれませんが、そうはいきません。なぜなら、その確認の作業でも、我々は常に言葉を使わざるを得ないからです。その言葉もまた、相互の納得からくる「たしからしさ」によって成立するものだからです。どれだけ言葉を駆使して、どれだけ深く掘ろうと、僕は彼のお
もう「かわいい」を知ることはできない。
だがしかし…実際のところ、こんなことは普通考えない。リア・ディゾンは、誰が見たってかわいい。一目瞭然である。そりゃ好みはありますよ。僕だって、みんなが言う「かわいさ」に首をかしげることはしょっちゅうある。だけどリア・ディゾンが「かわいい」といわれる意味は、誰でも直感的にわかる。ふーむ、なるほどね。たしかにかわいいよね、わかるよ、という具合に。
ここで僕が言いたいのは…「言葉」という単位じたいがすでに、相手と体験を共感することで、成り立っているものだと、そういうことなんです。
どんなものごともつきつめて考えれば真善美にたどりつくものだし、そこでは個人のはかり、感覚以外は意味をなさない。だけどみんながリアをかわいいと言う意味は、ただ「わかる」。フッサールの現象学ではこのことを「妥当」と呼んでいます。
「重要なのは、現象学では、この『妥当』は原理上、決して最終的な決定として定立しないということだ。(略)。ある「妥当」の成立はもはや動かせない決定項となるのではなく、必ず「妥当」変更の可能性を持っている。つまり「妥当」は、主観と客観の「一致」の確かめなのではなく、あくまでただ意識の内側の確信の構造として成立すると言えるだけなのだ」
(『哲学入門』竹田青嗣著 ちくま学芸文庫―第一章・わたしの哲学入門より)
主観(僕がリアをかわいいと思うこと)と客観(げんにリアがかわいいこと)を一致させるために、人は「真理」を探してきた。しかし自明のことだが、人間はそれぞれ固有の「好み=美意識」を持っている。ここには普遍的な真理なんてものは入ってこない。であるのに、なぜ僕らはリアがまちがいなく「かわいい」ということを確信できるのか。これについてフッサールは、そもそも客観なんてものは存在しない、といいます。それらは主観と主観のあいだで確かめあうことで成立したものだと。「リアはかわいいんだ」とひとりでおもっていても、他のみんなが「なんか外人外人しすぎる」とか抜かしてそれを否定すれば、好みとは個人的なものだとわかってはいても、多少は不安になってくるものでしょう。逆にみんながみんなかわいいかわいいと騒げば、うむ、そうだよね、おれもそう思うよ、となります。それぞれの感覚を体験することは不可能であるのに、僕らはいま、主観間の「たしかめあい」から、このように「かわいい」という言葉で納得しあうことができる。言葉じたいも、
実はこのような主観どうしのたしかめあいで成り立っているのです。そう、「かわいい」っていうのは、つまり「こういうこと」だよね、というふうに。
しかしこれはあくまで「共感」です。相互に了解しあって、たしかめあい、最終的には主観に戻ってきて、納得しているだけ。それでじゅうぶんだと、僕も思います。しかし、もし表現というものに価値があるとしたら、それは、そのたしかめあうという行為から生じるズレ、世界に対する違和感、そういうことに関してではないのでしょうか?なんでみんなわからないの?世界はこんなにヘンなのに、なんで普通に生きていけるの?そういう疑念や苦悩が、表現の出発点、動機なんじゃないかなあ。僕らは、リアがかわいい、ということについて「確信」することができる。だけど僕なんかは、最初のはなしにもどっちゃうんだけど、やっぱりとっても不安な気分になります。「かわいい」と納得しあっているけど、こいつと僕はほんとにおんなじことを思っているんだろうか?「リアがかわいい」ということ、さらには「かわいい」という言葉じたいの意味、その両方が、真理=こたえをもたず、「たしかめあい」からきているなんて、いや、あたまではわかるけど、ものすごいイライラします
。このために、人は表現されたものを通して、「共有」しようとするんじゃないのかなあ。
また例によってなにが言いたいのかわからなくなってきちゃったけど…。
「共感」が、実際の生活を支える、いわば世界の“たしからしさ”(恋はすばらしい、夏は暑い…)をうつすものなら、「共有」は、世界の、げんに感じられる“ふたしかさ”、疑いからきているのかなぁ。思考停止をよしとする人以外、誰でも抱くにちがいないこの違和感。やっぱり「表現」は、そういうものに対する武器なのかなぁ。