『きょとん』田中小実昌 実業之日本社
はあ~、やっと読み終わりました。文章は平易だし(というかしゃべりことば)、僕と思考法の似た部分があるのか、いつもはすいすいすらすら読めるんですが、、、えらく時間かかってしまいました。バイオリズムのせいかな?
田中小実昌の小説(?)は「おもう」ことの具現、思考風景であるということは、これまでにもくりかえし書いてきました。
この人はほんとう、あきれるくらい、いろんなことを覚えていない。誰それとはどこで会ったとか、あるいはどこだかで誰かと会ったとか、ぽろぽろ米粒でも落っことすみたいに、ほとんど忘れてしまう。というのはたんに、年がら年中酔っ払ってるからなんだけど…。だけど妙に細かい、実際に体験しているときには目にもとめないようなディテイルは、しっかり覚えていたりする。この感覚には頷けるところもある。いつ、誰が着てたのか覚えてないけど、誰かのTシャツのへんな柄と汗のしみだけは鮮烈に覚えていたり、なんのときだったかはさっぱり思い出せないけど、地面に転がったセミをうっかり蹴っ飛ばしてしまったら、その瞬間だけ復活して鳴きだしたのにびっくりしたとか、どうでもいいことに限っていやに明るく記憶されてることってありますよね。意図してそう書かれたわけではないだろうけど、そのあいまいさ加減によって逆に田中さんの思考風景がいきいきしたものになっているというのは、すごくおもしろい。描写がリアルだとか、人がよく書けてるとかじゃなく
、目にしたもの、体験したものを、あたまのなかから記憶されたままにとりだす、人が記憶を読む、その行為に読書を近づけようとするみたいに。
いかにも「小説っぽい」ことを何度かやろうとしているのもおもしろい。たとえば「ペアーの風船」冒頭で、海のなかで人魚とごっちんこした、として、ある女との出会いを比喩的に書いているけど、途中でめんどくさくなって、やめてしまう。実際にそう書いてある。
「女はわらった。もう人魚なんてめんどくさい。ぼくもわらった。でも、知らない女だ」
この“めんどくさい”っていうのは、たぶんホントなんじゃないだろうか。筆者じしんは、表現としての「比喩」はどうだか知らないが、たんにものをたとえるということは好んでいるように見える。いやちがう。実際そう見えたんだろう。「ああ、なになにみたいだなぁ」というふうに。というかそもそも「ことば」というものじたいが、大きくいえば比喩、他人の認識に甘えたものなんだけど…。(このことについてはまた近いうち別に、考えてみたいと思います)
この単行本は十の短編からなるほとんど随筆にちかい小説集で、あちこち旅行・滞在して、ぼんやりバスに乗ったり、ぼんやり酒を飲んだり、ぼんやり女と知り合ったり、そういうことの連続なんですが、この、一期一会的な出会いが、とにかくとっても心地よい。同じ人物は二度登場せず、文字通り流れるように去っていき、それであるのに通り過ぎていく(失われていく)ものごとに対するニヒリズムみたいな感じはぜんぜんない。たぶん筆者の気質なんだろうけど…。性的にきわどいはなしも、この人が腕を組んでうーむと言いながら真剣に「ぼんやり」考えると、なんだかまったくふつうのことみたいでおかしい(いや、そりゃ異常なことではないんですが)。なんだかへんなオジンだよな~。どんなに小説家が労を尽くしても、「じっさいに」彼らの思考を追体験することは、僕らにはできない。当たり前だけど。そのために、ふつうはフィクションが用意される。体験した物語全体を、なにかにたとえてしまう。だけど彼の小説にはそういうのがぜんぜんないんだ
よな。本のなかにこういうところがある。
「意味をとてもだいじにする人もいるし、意味をきらう人もいる。意味は解釈になりやすい。解釈はつまらない。世界観なんてことより、世界を変えることだ、みたいなことを、マルクスも言ったらしい」
(「マルタ会談」より)
「みたい」と「らしい」が一緒に出てくるところなんてすごい田中さんらしい(笑)
哲学大好きの彼が、「解釈はつまらない」と書いているのはすごいおもしろい。ポップ文学的なところがあるんだろうか?いや、小説に、じゃなくて、彼じしんに。あるいははじめからホントの表現なんてありえない、と割り切っているのか。うーむ。