いやいや待てよ…。
ただ規定し規定されるだけなら、ただの「他者」とかわりないんじゃないの…?
やはり…成長指標ということになるのだろうか。「相手」の存在が、「私」というものがここにあることを発見させ、またそのような(つまりそのことで「自己」を獲得した)「私」の存在が、「相手」をも規定する。この永久発電的な振幅に「つきあう」ということがあると書きましたが、たんにそれは「個人的」なだけで、僕らは不特定の他者に対しても同じことをくりかえしているのではないか。もし、個人的、つまり「一対一」であることが重要なら、この論理のうえでは「誰とつきあってもおんなじ」ことになる。そうじゃないですよね。
かんたんにして言っちゃうと、人は「自分の存在を確認するために」他人と関わろうとする。たとえばここに、なんだかわけのわからない、ぺらぺらしたものが重なった一個の物体があるとする。いつでも本屋にいける僕らは、それが村上春樹の『風の歌を聴け』文庫版だとわかるが、本というものを見たことのない原始人には、それがなんだかわからない。もちろん「村上春樹の『風の歌を聴け』だ」ということもわかりようがない。しかし時間のひずみだかドラえもんだか、なにかのひょうしに現代にやってきた原始人は、本屋に入り、そうかあれは本というものだったか、と知り、しかもそれぞれの本には区別があることも発見する。なるほど、あれは『聖書』でも『広辞苑』でも『五輪の書』でもなく、村上春樹『風の歌を聴け』だったのかと。まあ、ひどいたとえですが、とにかく、「他の本(他者)」という概念がなければ、「これは村上春樹の『風の歌を聴け』なんだ」という「区別(自我)」すら生じないんです。さまざまにある本のなかで、それとはちがう
本として「区別」されることで、この、一個では本であることすらわからない物体は『風の歌を聴け』たるのです。人間は本ではないし、この原始人のようにかってに存在を規定してくれる「神」もいない。自分から確認するしかない。ではその作業のなかで、なぜ「恋人」だけが特別な地位をもつのか?
それが、だから成長指標なのかなあ。遠回りしたわりにずいぶんフツーの結論だけど。「自我」が確立されると、今度は人は「思考」するようになる。自分は他人とちがう、ということに、無意識のうちに自覚的になる。「ただ生きる」ことが難しくなる。「意味」を求めるようになる。そんなものはないのに。ただ「ある」だけなのに。そのことに、実はみんな気付いている。だから、「目的」をこしらえる。そこにむかう「可能性」、ダイナミズムに、生を見出だす…。(さらにいえば、人と「つきあおう」という衝動じたいも目的になる)。僕らが「他者」のなかからある「ひとり」を選びとるのは、彼女(彼)が、その「意味設計」にふさわしいお手本となるからではないか。いや、お手本ではないな、つまり可能性にむかう姿勢じたいを共有(共感?どっちだ?)できるかどうか…。そういうことなのかなー。
でも…それなら異性を選びとる必然性はないことになる…。これはたんに動物的なことなのかな。「そういうものなんだ」という、身も蓋も無いようなこたえ…(笑)つきあったり別れたり、そういうのも、結局動物的な衝動か、あるいは成長についてひとりじゃ間に合わないくらい貪欲か、どちらかなんだろうな。
あ、ダメだ。ギブっす。もうやーめた。