また何気なく出てきたことばにひっかかってしまったのだけど…「若さに甘える」ってどういうことだろうか。
「若い」ということに甘えるのは、死までの残り時間が多いことに甘えるってことだろう。つまり、まだたくさん残ってるにちがいない時間に「可能性」を見ていることになるのか…。キルケゴールは、現在、あるいは「可能性」(がんばれば小説家になれるかもしれない)の先にある結果(小説家になる)ではなく、その可能性じたいに、人間は生を見る、と言っている。たとえば、僕は小説家になりたい。読めば読んだだけ成長し、日々わずかながらでも新しい技術や発想を身につけていくことに、僕は可能性を見ている。しかし人間は常に「死」に限定されたものだ。生と死のすきまに与えられた、わずかな余裕に、振動しているにすぎない。仮に僕が夢をかなえ、小説家になることができても、「死」の限定からは逃れられない。やってくるのは「すっぴんマスター」の苦悩だけ(笑)しかし人は、その結果にいきつく過程じたいに、すなわち「可能性」に、いきいきとした生の躍動を見るのだ。目的のない人生がつまらないものであるというのはそういうことで、限定された、言い換えれば取り替えのきかな
いその人のものであるからこそ、振動のダイナミズムは生の中で意味をもつ。
だから、生まれたときから地位やお金のある人間が、生き甲斐を見出だせなくて苦悩するのは意味がわからなくて、それは、多くの現実的な人間が、「死」とは別の、「社会」という括りにコミットし、自らをあえて限定することで、お金もうけや地位昇進に可能性を見出だすのを目にしてがっかりしているだけで、すでにそれがあるからといってニヒリスティックになるのはただの怠慢なのだと思う。僕は「死」や「社会」による限定をそう悪いことだとは思いません。おしまいがあるから、おはなしにはクライマックスがあるわけで、高みを目指す意味があるわけで、どこまでも無限に伸びたり膨らんだりできるものなら、それこそ虚しい。人は不老不死にあこがれるものだけど、それは『ドラゴンボール』や『幽遊白書』がもっと永遠に続けばいいのに、と願うようなもので、これらはあれで終わったからいいんです。だから、それこそ「どうせ死ぬ」のなら、甘えるのではいけないんだなぁ。当たり前だけど。どうせ死ぬのだ、どうせ社会の歯車なんだ、として絶望してしまえば、いきいき
とした生は消えてしまう。逆にいえば、その限定を自覚して、「可能性」を見出だせれば、生は躍動的なものになるにちがいない。
こんなこと書いてもいったいどれだけの人が読んでくれるのか。正直なはなし、ブログを始めた当初は、ただだらだら日常を書いたよなブログにだけはなりたくないと思っていたのですが、書評やアルバム解説なんかの題名を検索してここにくる人が大多数なんだから(たとえば「山田詠美 カニバリズム」とか「マーズマニー 44」とか「m-flo ディス」とか)、ほんと、身の程知らずのアホだよなー。普通のはなしをおもしろく書いて、たくさんの読者を得るほうがずっとムズカシイ。
なんでこんなにアクセスにこだわるかっていうと…いちおう、これまでのほとんどの記事は、モノローグまでいかなくても、聞き手読み手を意識することで書かれたもので、他人が読む、というかんたんなことこそが、文章を書く行為に緊張感を与えるわけで…。そうなるとどれくらいの人が、またどんな人が読むのかっていうのは、ほとんど必然的に気になってくるものです。
…なんかすごい病んでるみたいなはなしになっちゃったけど、僕は相変わらずアホ丸出しですよ。D.Lのラップ聴きながら、歌詞を追うことはできないから、フロウだけを鼻唄でふんふんやって、もう金曜か…、ってひとりごと呟いてます。ふんふミュージックふふん、ふんふ集中、ふふふふん、求め、ふふふメイクノイズ。
これでよし!(笑)