『カール・マルクス』吉本隆明著 光文社文庫
あんまりお金がないので、たっぷり時間をかけて読もうと思っていたのだけど案外におもしろくてすぐに読んでしまいました。わくわくするような知的興奮が、まちがいなく僕の内に起こっていました。僕は思想とかそういうこと、不勉強なもので全然知りません。高橋源一郎『ジョン・レノン対火星人』のなかに、「彼女はマルクス=エンゲルスをひとりの人物の名前だと思っている」というふうな冗談があったけど、僕は恥ずかしながら、え?ちがうの?とつぶやいていたクチです。これはほんの二年くらい前のはなしです…。そういう男が書いているものですので、悪しからず…。
また例によって、吉本的語法、ヨシモト語が連発されていて、首を傾げる個所もひとつやふたつではなかったけど、読んでいくうちに馴れていくことはたぶんできる。そういえば田中小実昌は、西田哲学について、西田幾多郎の言葉で(語彙で)理解しても、それはわかったことにはならない、と書いていた。哲学は幾何学ではないのだから、と。ある人の思想というものが漠然と彼の目前に漂っているとして、彼自身も、それをかたちにする際にことばを選択し、場合によっては創出までしてしまう。言葉にすることによって規定されてしまい、論理矛盾を引き起こすと知っていても、哲学者たちは真理の具象に努める。口頭でのネタの説明を強要される芸人みたいなものか。それでも、注意深く読むことで、僕らはいちおう、彼がどういうことを言いたかったのか、感じることはできる。しかし田中小実昌は、それじゃダメだ、と言っているのだ。それはつまるところ、彼の「言葉」を理解しただけにすぎない、彼の「言葉」をつかって考えることができただけにすぎない、と。彼が
見たもやもやを感じとったなら、さらにその先、つまり自分の「言葉」でしゃべって、理解しなきゃ。いまおもうと、田中小実昌のあの引用癖は、哲学者や思想家の目にした「もやもや」を読者と公平に共有するための、小説的な(つまり活字的な)策だったのかもしれないな。
吉本隆明がマルクスを論じたようにこの本を論じることは僕にはむろんできません。いろいろ引用してまとめようと、あっちこっち線もひいたけど、危険な感じがするので。吉本隆明は、「マルクスの思想は簡単でもなければ、理解しやすくもなかった。全ヨーロッパでも指をかぞえるほどのものしか、それを理解することはできなかったはずだ」(「マルクス伝」より)と書いています。
「ふつう、いわゆる〈マルクス〉主義者たちは、マルクスの〈自然〉哲学の本質としての人間と、自然のあいだの〈疎外〉関係と、それを市民社会に表象したときにかんがえられる経済的カテゴリーとしての〈疎外〉とを混同し、おなじ次元でとりあつかおうとしている。だから、いっぽうでマルクスの初期の手稿にある〈疎外〉または〈自己疎外〉は、観念論の残りかすをひきずった未熟な概念だという男がいるかとおもうと、またいっぽうでは、初期のマルクスの〈疎外〉論を再評価すべきだという議論を、社会の経済的カテゴリーから説き起こす男もいるのだ。しかし、わたしのかんがえでは、このいずれもつまらぬ語り草にしかすぎない」(「マルクス紀行」より)
いわゆる政治的な、『資本論』のマルクスと、自然哲学から出発し、人間と自然の関係を相互規定する「疎外」という概念を市民社会についても考えたマルクスを(吉本隆明はここで「表象」という言葉をつかっています)、ごっちゃにして、乱暴にいえば表面だけみて、一面的に解釈してしまうのは、愚であると、そういっているのです。(この指摘はまた、この本のもっとも大きな目的でもあります)。それはたんに、彼が人間として「生活」していたからにすぎない。核はひとつ、あるいはひとかたまりであると。
だからというわけではないけど、僕がここで、わかったようなわからないような状態のままこの本の言葉を引用して、もっともらいしいコメントを加えて投げてしまうことも、それはできるけど、もっと慎重にいきたいという気持ちが大きい。たぶんここで曖昧なままからことばを発して、文字にしてしまうと、僕はたぶんずっとそのことばにしがみついてしまうだろうし、そうなるとわざわざブログ開いているわけがわからない。特にこれは吉本隆明の本であって、直接マルクスを読んだわけではない。だからもう少し他のものを読むまで、いろいろなことの判定を保留しておきたいです。とりあえずは、竹田青嗣の文章でマルクス関係のはなしがないか探そうと思います。
それはそうと、吉本隆明の思考力、整理力(つまり、文章化能力、学術的基礎体力)はやっぱり圧倒的でした。こんな日本人がいるというのは単純に誇らしいし、理屈抜きでリスペクトできます。ひとりの批評家について意識を集中しすぎるのは危険なことだけど…。