『狐寝入夢虜』十文字実香 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

自分と同世代の作家のものをもっと読まなきゃな、というのはずっとあって、なぜなら彼らはこの僕と同じかあるいは近い迷いや納得を経て作家になっているにちがいないし、そうでなくても同じ時間を生きるものであるから、似たものを読んでいる可能性も高いし、視点についても、少なくとも二葉亭四迷よりは参考になるものがあるはずで、そういうわけで若い作家のものもときどき読むことにしています。同世代といっても、十文字さんは僕の九個うえなんだけど…。当たり前のはなしだけど、古いものを読むのもそれと同様にして大切です。時間がちがうということは、それは異なる世界に生きるものということにもなりますし、またそれとは別に、間違いなくそれらは生にあったものでもあるから。(意味は少しちがうけど、こういう温故知新というか、オールド・スクール趣味のところにも、なんとなく文学とヒップホップの共通点を感じますよね。ええ、むりやりです)。


『狐寝入夢虜』十文字実香 講談社
第四十七回群像新人文学賞受賞作

なにやら屁理屈をこねて無職をひとつの生きざまみたいに捉えている、ある意味非常にタフな、上岡鳥子という女の冒険物語。安岡章太郎といいのび太くんといい、あとむらたといい、この種類の記事が最近多いなぁ…。

『群像』の選考委員でもある加藤典洋の選評を裏表紙より引用。
「『狐寝入夢虜』には、深く潔い語りの力があった。この語りの力で、既成の作品の構造が壊れている。そのひとりぼっちの感じに、チャームがある。やっぱり小説はこうでなくちゃ」


加藤典洋がいうように、この小説の特徴は、落語みたいな語り(文体)の独特なリズムにある。それは主人公・鳥子と語り手、つまり「筆者」との分離からきていると僕は思う。小説内の「筆者」の存在というものが、ここではかなり大きい。
「(日頃の憂さ晴らしと称し、練習までして、しかも喜んで、忘年会で醜悪なコスプレをしてみせている友人の写真を見て)かようにして社会生活というものが健全かつ自由な精神活動を蝕むというのなら、労働の喜びなどというものは、何と空しい、胡散臭い言葉であろうか。彼らがどんな詭弁を用いようと、鳥子が大人らしい社会人とやらになるのを拒否するのは、この厭わしい、忌わしいただ一枚の写真が正当な理由を提供している」

鳥子はこういう人間である。しかしこのように頑迷な思想にかためられた小説にありがちな、欝陶しい押し付けがましさがここにはない。それは「筆者」の存在が、いわば「小説的つっこみ」の役割を果たしているからだろう。「筆者」は鳥子を書きながら、やれやれ、と肩をすくめ、にやにや首をふっているのだ。
読んだ感触としては、『十文字実香』の影は、筆者より鳥子のほうにあるように思える。もしかしたら十文字さんは、鳥子を主人公として、「筆者」なしで、同じ小説を書いたことがあるのかもしれない。しかしどうにも欝陶しい。説得力がない。むしろこれを客観視から戯作化して、皮肉に書いたほうがすっきりするのではないか。そんなふうに考えたのかもしれない。
またこのような客視化はさらにいろいろな効果を生んでいるようで、鳥子がこうした、鳥子はああした、と書くとなると、当たり前のはなしだけど描写は一歩離れた距離のあるものとなり、全体がどこか作りものっぽく見えて、「狐に騙されてるかも」という感触を生んでいる。またラスト近く、鳥子は自分が、松ぼっくり、金木犀、半袖、とたどって歩いてきたことについて、「季節が遡っている」と気付く。僕はここを読んでびっくりしてしまった。こたえ書いちゃったよ!と。たぶん「筆者」のいない小説なら、このような親切な、というか親切すぎる「解説」はつかない(「気付く」のは鳥子だけど)。ここから先の数ページも、同様にして説明しすぎ、という気もしないでもなかったけど、この「やさしい解説」を挿入するというのも、たぶん考え抜いた末の結論なんだろう。鳥子ならこう考えるにちがいない、そして小説に(つまり「筆者」に)記述を求めるにちがいない、みたいな。

いやいや、論拠もなんもない、思い付きで感想書いてみたけど(いつもかな…)、最後までわからなかったのは(「ウソでもいいから」のこたえを見つけられなかった)、「鳥子」という名前…。絶対なにか意味があると思うんだけどな…。これから続きの『水酔日記』読むので、解けたらいいな。