『堕落論』坂口安吾 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

この本を初めて読んだのはもうずいぶん前のような気がするけど、たしか僕が大学一年か二年のころだから、ほんの四、五年前なんですよね。これはその間の密度をあらわすのか、それともなんでも忘れっぽいという僕の気質のせいなのか…。
坂口安吾について、小説に関しては、僕はあまりおもしろいと思ったことはありません。しかしこの『堕落論』に呈示されている思想を頑ななまでに貫く姿勢には、単純に尊敬の念を抱きます。だからこの本をよく読む理由というのも、共感できるとかあるいは学術的に興味をひかれるとかそういうことではなくて、文章が孕む迷いのない力強さが、ただただ僕を引き込むのです。そういう意味で、彼は僕のなかで現在の高橋源一郎と立場が近いかもしれない。彼の小説もおもしろいことはおもしろいんだけど、どちらかというと「小説愛好者」としての姿勢のほうをリスペクトしているから。エッセイとか批評とか大好きですし。

『堕落論』は、だから非常にパンチラインの多い本で…すごい抜きどころに困るんだけど、いくつか気になるところを引用してみます。


(写実主義について)
「一般に、私達の日常に於ては、言葉は専ら『代用』の具に供されている。例えば、私達が風景に就て会話を交す、と、本来は話題の風景を事実に当って相手のお目に掛けるのが最も分りいいのだが、その便利がないために、私達は言葉を借りて説明する。(略)。
斯様に、代用の具としての言葉、即ち、単なる写実、説明としての言葉は、文学とは称しがたい。なぜなら、写実よりは実物の方が本物だからである。(略)。単に、人生を描くためなら、地球に表紙をかぶせるのが一番正しい」

「文学のように、いかに大衆を相手とする仕事でも、その『専門性(スペシアリティ)』というものはいかんとも仕方のないことである。どのように大衆化し、分かりやすいものとするにも、文学そのものの本質に付随するスペシアリティ以下にまで大衆化することはできない。その最低のスペシアリティまでは、読者の方で上って来なければならぬものだ。来なければ致し方のないことで、さればと言って、スペシアリティ以下にまで、作者の方から出向いていく法はない。少なくとも文学を守る限りは。そして、単なる写実というものは、文学のスペシアリティの中には入らないものである」

(ともに「ファルスに就て」より)


「生きてる人間というものは、(実は死んだ人間でも、だから、つまり)人間というものは、自分でも何をしでかすかわからない、自分とは何物だか、それもてんで知りやしない、人間はせつないものだ、然し、ともかく生きようとする、何とか手探りででも何かましな物を探しすがりついて生きようという、せっぱつまれば全く何をやらかすか、自分ながらたよりない。疑りもする、信じもする、信じようとし思いこもうとし、体当たり、遁走、まったく悪戦苦闘である。こんなにして、なぜ生きるんだ。文学とか哲学とか宗教とか、諸々の思想というものがそこから生まれて育ってきたのだ。それは生きるためのものなのだ。生きることにはあらゆる矛盾があり、不可決、不可解、てんで先が知れないからの悪戦苦闘の武器だかオモチャだか、ともかくそこでフリ廻さずにいられなくなった棒キレみたいなものの一つが文学だ」

(「教祖の文学」より)


文章があまりに力強いので、省略して書くのが難しい…。携帯でカチカチ書き写すと、安吾の文章のものすごいパワーが伝わってきます。こんな、ジェロム・レ・バンナみたいな文章を書ける人、いまいるのかなぁ。時代がちがうっていったらそれまでなんですが。ひょっとすると、日本で最初のB-BOYって、この人なのかもしれないな…。