僕の文章には、つまり思考法には、やや理屈っぽいところがあると、自分ではおもうのですが、それは人格形成期の高校一年くらいまで、がっつり推理小説にはまっていたからだと思います。といってもいわゆる大衆推理作家というか、つまり西村京太郎とか内田康夫なんかはまったく読まないし、コナン・ドイルは好きでしたが、江戸川乱歩や横溝正史、海外ならエラリー・クイーンだとか、アガサ・クリスティ、ディクソン・カーというような古典も、勉強のためにかじったという程度です(三つの棺とかね)。それじゃあなにを読んでたかって、島田荘司でした。いま読んでも(古いものほどよい)この人の文章は体にぴったりくる感じがあって、おおげさにいえばやっぱり僕の文章の(ということはつまり思考法の)原点だという感じがします。
なにが好きだったかって、文体やトリックもそうなんだけど(「文体」という概念じたいに気付くようになったのが、ごく最近のことです)、やっぱり彼の創造した御手洗潔というキャラクターでした。小学生のころの僕の最大の偶像は、まちがいなくこの人だった。だってひくぐらい頭いいんだもの。それに他者からは奇特にみえるかもしれないある信念に基づいたその立ち居振る舞いも、単純な僕を夢中にさせるには十分すぎるくらい魅力的でした。でも自意識に目覚め始めるあのころに読めば、誰だって少なからぬ影響を受けると思いますよ。そのころからやはり僕には他人に趣味を押し付ける癖があったのですが、読んだ人間はひとり残らずはまってましたもの(それで僕よりくわしくなっちゃって、なんか淋しい思いをしたりしたな…)。
島田荘司つながりで綾辻行人や歌野晶午、我孫子武丸なんかも読むようになって、推理小説という括りじたいを好きになるまでにそう時間はかかりませんでした。もうそのころは、とにかくなにを読んでも新鮮でおもしろくて、ぼこぼこ、食べるみたいに本を読んでいました。もちろん、こっちは教養というか勉強のつもりで純文学も読んでいた(読書ということに関していえば、例の予備校の先生の影響でこっちが先だったし)けど、おもしろさは比べられるものではなかった(というのは、要するに読めてなかったということなんだけど。だけど一度でもミステリ中毒になったことがある人ならわかりますよね)。高校にあがるころには僕の蔵書はかなりの膨らみになっていて、冊数だけみれば、僕はまわりの誰よりも本を読んでいたし、自分でも読書家を認じていました。しかし純文学についてはやはり手薄で、漱石がぱらぱら、太宰がちらほら、宮沢賢治を読むやら読まないやら、という段階でした。そして、読書家を名乗るからにはソッチのほうもアレじゃないとな
、というふうに、なにやらエラそうな感じで無知丸出しのアホ面こいて手にとったのが、村上春樹『ノルウェイの森』でした。なんか聞いたことある題名だし、有名そうだな、ぐらいで手にしたわけですが、それはそれはびっくりしました。というか、逆に戸惑いました。ジャコ・パストリアスのライブ版『ティーン・タウン』とか、チック・コリア&ゲイリー・バートンのこれもライブ版『セニョール・マウス』とか、本当に優れた音楽家の演奏を聴くと体が硬直してしまって、首やら膝やらでリズムをとったりなんてできないものだけど、そういう気分になったのです。こんなきれいな文章があるのか、ってね。いまおもえば島田荘司の文章についても体のどこかで感じていたんだろうけど、数をこなすにつれ、やっぱり要領がよくなっちゃって、大掛かりなトリックとか御手洗潔のヘンテコなふるまいとかしか見てなかったのかもしれませんね。別にそれが悪いってわけじゃないけど。
島田荘司について書こうと思ったらなんかただの思い出話になってしまった…。いずれにしても一度では書ききれないので、またにします。
…それとわかる人はわかると思いますが、僕がチック・コリアからジャズを、音楽を聴き始めたというのは、島田荘司『異邦の騎士』の影響です。ちょっと長いけど、仕掛けのある推理小説としても、繊細で哀しい物語としても、すばらしい小説だと思います。島田作品ではちょっと異色だけど、あのような読後感にはそうそう出会えるものではないでしょう…。