『リトル・バイ・リトル』島本理生 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

さくらももこがちびまる子ちゃんの34話、『プールびらき』で、裸になって喜んでる男子をして、「このころ(小学三年生)の男子というのは女子とくらべて格段にバカが多い」と書いていて、情けないけどそう思う。この島本理生が初めて賞をとった15歳のころ、僕はどんなだったか?たぶん音楽と小説のこと以外にはまったく興味がなかったろう(…あれ?オレ、成長してない?)。ましてや家族がどうとか生きるってどういうことかなんて、それこそ毛ほども考えてなかった。あるいは考えていたとしても、それはとても狭い解釈だった(…あれ?オレ、成長してない?)。乙一の『夏と花火と私の死体』の巻末にある小野不由美の解説によると、16歳でこれを書いた乙一(♂)について我孫子武丸が「女の子やったら分かる。けど、男の16なんてまだガキやで。自分が16の時にあれが書けたかと考えると、絶対に無理やと思う」と語っていて、うむうむうーむ、というところだ。

綿矢りさや金原ひとみ、三並夏など、若い若い、女性の作家が出るたびに、「年齢で選ばれたわけではないけれど、(若いということに)触れないわけにはいかない」というような批評家の言葉がきかれて、要するに「非常に若い」という話題性でデビューできたわけではなく、それだけの作品なんだよという意味で、それは当然なんだけど、しかしなぜ「非常に若い」男性作家は出てこないのかというと、「格段にバカ」だからとすればそれはまあそうなんだが、僕はただただ、男と女ではこんなにも露骨に世界の見えかたがちがうんだなーと思うのだ。具体的なかたちで、つまり納得するのだ。だから男女というのは構造的に理解し合えないのか…というのは早計だけど、考えてみる価値はありそうだ。このまま書き続けてみる。
たとえばこの異質なもののあいだに言葉を置けば、両者に共有の表現が生じて、異質感は記号として分解され、わかりあえる「気分」にはなれる。つきあい始めたばかりのカップルがいて、たとえば男が求めても女のほうが拒否しているようなとき、「男って(女って)そういうものなんだ」というような、そういうもっともらしい言葉をとにかくあいだにおけば、仮にどちらかが嫌悪感を抱いたとしても、いちおうの「納得」は手に入る。でもそれは論理的にそうであるというだけで、実際にはなんの交わりもない。人はそういうくりかえしを経て、透明人間に少しずつ絵の具をかけて輪郭を得ようとするように、男女のあいだに置かれたいろんな種類の言葉をかみくだいて、「こういうことなのか」とアタマでおもうようになる。しかし、言うまでもないことだけど、僕らが目にしているのは可視化された透明人間ではなく、あくまで透明人間のかたちをした絵の具である。
だから人は小説を読む。この透明人間という媒体に、まったく別のところからもってきた透明の物語を置いて絵の具を塗りたくるのが、創作という行為の一面(場合によっては全面)である。だから読むほうも自分の世界を組み込むことができる。ここに透明なものでなく、生身を置いたのが自然主義だろう(浅い考えかな、これ)。それだったら言葉なんていらない気もするけど…。そういうわけでもないのか。こんな言いかたは男女差別と言われそうだけど、女の子って、こういうことを言葉抜きで(というのもおかしいけど)、体で理解している気がする。若い女の作家のものを読むと特に。僕ひとりの、勝手な考えだけど。優れた批評家が男ばかりなのもそういうアレなのかな。やっぱり両者には決定的なちがいがあると思います。
くりかえし引用してきたけど、村上春樹『若い読者のための短編小説案内』のある部分をもう一度引用しておきます。(少し要約してあります)

「(三十歳という節目をむかえることで青春は終わったんだということを否が応でも認識させられそれを小説というかたちに残しておきたいと考える)でも、実際に何を書けばいいのかというと、それがよくわからない。ただ若かったんだという事実を描いても、それはリアリティを欠いた薄っぺらなものになってしまう。そこで僕らはかわりにファンタジーをひとつでっちあげるわけです。いくつかの重い事実の集積を、ひとつの夢みたいな作り話にとりかえてしまうのです。そこで初めて、読者も、自分の抱えている現実の証言をそのファンタジーに付託することができるわけです。言い換えれば幻想を共有することができるのです」


小説の感想書かな…。
やや文章があらい感じもしないでもないけど、あまり饒舌でないのが、どこかにたどりつきそうでいながらずっと表面を漂っているようで、心地よい。それは小説の内側にある時間の流れだろう。この小説には、「ある日」とか「あるとき」というような言葉が少ない(というか、たぶん、ない)。全部、「その日」である。また、主人公・ふみはあまり多くを語らない。最初の父親にエアガンで撃たれたことがあるみたいだけど、おしまいあたりで周に訊かれるまで明らかな文章はない。「口に出すと、はっきりしちゃう」、つまり認めざるを得なくなる、というのもあるんだろうけど、それは前を向いているからだろう。「私はもう何も待たなくて良かった。私が待っていたものは、もうとっくの昔に失われていた。そんなこと、本当はずっと分かっていた」。母親から、もう父親を待つ意味はないといわれ、ふみはそう考える。実際には長いあいだ待っていたものを、冷静に、そう捉えなおす。たくさんのものが死に、たくさんのものが離れていくが、それは時間のなかにいれば仕
方なくて、同様にしてたくさんのものが同じ空間に生き、新しく現れる。
さらに余計に勘繰れば、章分けがないことも、たぶん意味がある。いくら突発的に見えても、物事というのはきちんと前後があって、段階というものがあるわけではなく、なにかとつながって、続いている。『リトル・バイ・リトル』。解説者がこの題名の意味を読者に問いかけているが、つまり、そうやって流れ、成長していくのだろう。