藤原鎌足の息子である藤原不比等は太安万侶と稗田阿礼に命じて編纂されたのが古事記、日本書紀であるが、これらはいい意味で真実の歴史を書き換えたものであると考える事が出来る。
人類の歴史はその都度、必要に応じて伝え方を変える必要があり、釈尊が最後に行った説教でも嘘は方便と言う事を述べている。
つまり仏教は待機説法であり、相手の話を聞いてからそれらに対して答えるものであり、全ての人々に説法すると言うものでは本来ない。
つまり人によって答えが違うわけであり、それこそが釈尊の言う嘘も方便なのだ。
古事記、日本書紀もそうであったように事実を伝えるのではなく、その時代を統治するのに都合のいい事を述べたまでである。
だからと言って、偽書であるとか歴史の改竄と言った了見の狭い事を言うのは所謂歴史研究家に多く見られるが、改竄されていたからどうなのか?
嘘だからどうなのか?
私たちはそこに書かれた真の目的を理解しなければ
嘘も方便と言う意味を理解出来ないのである。
歴史とは事実ではなく真実であり、真実とは人類が共通の認識をする事で成立する。
つまり事実はさほど重要ではないのかもしれない。
ウクライナとロシアの戦闘も実際に本当の事実と真実は歴史と言う尺度の中で変わってしまうものだ。
アメリカのプロパガンダとロシアのプロパガンダは正反対であり、仮にウクライナに私達が居たとしても、事実はさておき真実は後の時代へと受け継がれ真実は違うものになるのだろう。
それこそが歴史であり、人類の認識がこれらを作り上げ私たちは事実として認識しているに過ぎない。
だからと言って歴史を学ばないのは最も愚かな事でもある。
真実とされている歴史を学び共通認識を持つところから未来を作る事が可能になると思うからだ。
教育とは人類のリテラシーを共有するものであり
教育を軽視する事は自分勝手な人々が台頭し、それこそ人類は闘争社会へと移行する。
何を言っても人類が共有している常識が無くなる社会は滅亡の道しか残されていないだろう。
つまり未来とは人類の共通認識の上に成り立っているのであり、現在の私達のレベルに応じて決まるものである事を鑑みると、教育の大切さを実感する事も容易であり、私達が大切にすべき事も自ずと導き出されるのだと思うのだ。