東京ヤクルトスワローズの現監督・髙津臣吾さんは、現役時代クローザーとして活躍しNPBで歴代2位の通算286セーブ、さらにメジャーリーグ、韓国、台湾プロ野球を合わせると通算347セーブを挙げています。
ちなみに、日本、アメリカ、韓国、台湾のプロ野球でセーブを記録しているのは世界中で髙津さんただ一人です。
髙津投手は1990年ドラフト3位でヤクルトに指名され入団、2年間は先発、中継ぎと色々試されながら投げていましたが、一軍定着までは至らない状態でした。
転機となったのは1992年オフ、日本シリーズ終了後に野村克也監督から「潮崎哲也(当時の西武のリリーフ)のような遅いシンカーを習得しろ」と命じられたことです。
それまでは速いシンカーしかなかった髙津投手でしたが、この言葉をきっかけに習得すると翌1993年からリリーフに定着します。
しかし、リリーフではあったものの、シーズン当初は中継ぎが主(ちなみに1試合のみ谷間で先発もしています)で、クローザーというわけではありませんでした。
転機となったのは5月2日の巨人戦、4-1とスワローズ3点リードで迎えた9回裏に登板した髙津投手は2死1塁と後ひとりまでたどり着きます。
ここで迎えたのは大物ルーキー松井秀喜選手、するとベンチの野村監督は髙津投手に「ストレート1本勝負」のサインを送ります。
髙津投手は気がすすまなかったもののベンチの指示通り、ストレートを投げると松井選手はものの見事にスタンドまで運び、これがプロ第1号本塁打となります。
試合は4-3と1点差に迫られるも髙津投手が後続を抑え勝利し、髙津投手はプロ初セーブを記録します。
野村監督は、わざと打たせることで「髙津投手はストレートでは勝負できない」ということを認識させる意図だったと語っていますが、これにより抑え方を身をもって知った髙津投手はクローザーに定着、同年20セーブを記録します。
その後は4度の最優秀救援投手、さらに4度出場した日本シリーズでは、4度すべてで胴上げ投手、防御率0.00、セーブシチュエーションではすべてセーブ成功で通算8セーブ(日本シリーズ最多記録)を誇ります。
野村監督は生前「失敗と書いて『せいちょう(成長)』と読む」と語っていましたが、打たれたことでクローザーをつかみ取った髙津投手はまさに、この言葉を地で行く選手だったと思います。
クイズに参ります。テーマは「髙津臣吾」です。
【問題】
1 亜細亜大学4年生時、髙津臣吾投手は2番手投手でしたが、その時のエースだった投手は誰でしょう?
2 髙津臣吾投手が現役時代、ヤクルトで22番以外で着用した背番号は何番でしょう?
3 高津臣吾投手が2011年-12年に在籍し(11年は選手専任、12年は監督兼任)、その時につけていた背番号22番を永久欠番に指定しているBCリーグのチームはどこでしょう?
【解答】
1 小池秀郎
2 11番…メジャーから復帰した2006年に着用、当時22番は高井雄平投手がつけていました。
3 新潟アルビレックス
今日の1冊
『理想の職場マネージメント~一軍監督の仕事~』(高津臣吾 光文社新書)