まずは最近思ったこと。
ふと思っちゃったんだ。
俺、四年間も大学行くんだ、これから…。長っ!って。
なんか笑えてきちゃうくらい。
これからまた大学生になるのかって思ったら、なんか急に信じられないくらいバカらしくなってしまったのです。
その一方で着々と大学生に戻った時を考えてる自分もいるわけで。。
一体俺はどこへ向かいたいんだろうかと。
就活or起業なら間違いなく後者に魅力を感じてる。
プログラミングはおろかExcelやWordも出来ないのにな。
なんかパソコンに弱いと会社を立ち上げるなんて出来そうにない気がする。
それも偏見なのかな。
パソコンが出来なかったら、できる人に助けてもらえばいいのか。
でも、SNSを駆使して何かしらを発信したり、文章を書くようになると、
もう少しパソコンが使えたら面白いことができそうだなとは思うんだ。
起業って言うとパソコン以上に経済の知識が必要な気がする。
それもまた偏見か。
更なる偏見だけど、経済の勉強って「情報>知識」みたいな気がしてしまう。
学問ぽくない。
外語も学問ぽくないって言われたら返す言葉が無いけど。
だから就職は何となく嫌。てか就活は嫌。媚び売るような感じがする。
この漠然としたイメージ、結構根深いんだよな。何でだろう。またいつか書いてみたいな。
でも、バイトをして仕事の楽しさを覚えはじめてはいる。
スーツで仕事も楽しいのかも。ビジネスマンへの漠然とした憧れ?
起業ならどんな分野でやっていきたいんだろ。教育関係な気がするんだけど。
一人で全教科を教えたいって思いは今だ変わらず。
自分なりに全教科を体系化して説明したい。
自分の受験時代にできなかったことにまだ固執してんのか?
いや、それはもう消化した形だと信じてる。
でもきっと教えるために想像以上に時間をかけないといけないんだろうな。
たくさん本を読まなきゃいけないんだろうか。
勘弁だ、マジで。なるべくなら本は読まない。
基本は立ち読みで済ます。
読むなら古典を読む。
これが最近思ったことのひとつ。
いつまで続くやら。この考え。
定期的にブログを更新してる友人に感化されて、何となく更新。
今日買った本。
ショウペンハウエル「読書について」 ウィトゲンシュタイン「論考」
ということで、読書について。
この本を読む前と後でどんなふうに変わるか、気になるし。
本の読みすぎは毒。読んだ本の全てが血肉になる訳ではない。
だからたくさん読むことを目的化したり、義務化するのはnonsense。
自分がどういう本に興味を示し、その本の内容が血肉化するのに要する時間を見極めること。
これは本を読みながら同時進行で考えるべきこと。
Reading for information:80% Reading for formation:20%
(超意訳:読んだ本の8割は情報にすぎず、残りの2割が人格形成に役立つ。)
脈絡もないけど、この文章が頭に浮かんだ。
英文解釈教室の例文と、「8:2の法則」をヒントに、書いてみた。
書店で自分の人格形成に役立つ本が見極められたら苦労しない。
本屋に通い、色んな本に目を通し、情報を集めつつも、人格形成に役立つ本との出会いを期待する。
本屋をbrowse aroundする理由だ。
本屋に通って、平積みされた本に飛び付き最先端に着いていってると勘違いはしたくない。
ここでの積ん読が効果を発揮する気がする。
書店で目を引く本がある。
で、とりあえず買う。
買って本棚に置いておく。
もちろん、買った当日のテンションで読むのが一番いい。
買いたいと思った理由と気持ちの消費期限はその当日だから。
漫画でも、小説でも、学習参考書でも当てはまることだと思う。
でも、続かない本の方が多い。
少なくとも自分は。
それも仕方ない。と個人的には諦めていた。
ちょっと罪悪感を感じつつ。
僕の読書の基本は積ん読にあると思う。
とりあえず買う。
買ってから考える。
自分がすでに持っている本の中に位置付けてからじゃないと見えない景色があると思って。
実際にそうだし。
けど、これも狙って始めた訳ではないのだが。。
僕は本が読めないんじゃないかと思ってた。
今も少し思ってるのかも。
積ん読ばかりして、読書も習慣化しない。
一旦読み始め、もしハマると、時間を忘れ読み続ける。
小説の場合だとまるで映画のように感じてしまう。
本当に面白い小説だと読むスピードも上がって、集中力も長時間続く気がする。
けど、全然面白くない本だと、30分が限度。
読み続けられない。
何でこれを読まなきゃいけないの?とか
そもそもこれを学んで俺は何をしたいのか?とか
メタ知識への問いがボコボコ湧いてきて、読書どころじゃなくなる。
何かを吸収しようとするんじゃなくて、問いを立てる。
しかも根源的な問いを。
何よりも割り切ることが大切。自分でもよくわかってる。
けど、問いを立てまくる。
しかもすぐに答えが出ない問いばかり。
僕は読書ができないんじゃないか?
いや、そもそも読書ってなんだ?
読書って何のためにするんだ?
楽しいから始めたはずなのに、何で文句言いながら本を読んでるんだ?
しかも、いつの間にか本を読むことが過大評価されてる。
読んでないと知的に劣ってる、っていう変な風潮がある気がする。
そんなに読書ってすごいことだっけ?
そもそも頭がいいってなんだ?
頭がいいことに憧れを持ってる自分がいるけど、それはどこからくる?
頭がいい=知性?(なんか違う気はしてる。でもなんでだろう)
読書っていう言葉の周りにはあまりにも多くの通念が結びつきすぎている。
それを解いてみると何があるんだろう。
何で目の前に本がある?
作者がいるから。
何でいる?
何かしら伝えたかったんじゃないの?
誰かに何かを伝えたい、それを通して自分を表現したい。
そう思わずに書いてる人なんかいないだろうからさ。
じゃあなんでこの本がここにある?
そりゃ買ったからだろ。
じゃあなんで買った?
買いたかったから。
なんで買いたかった?
その時の自分に聞く以外、本当の答えは知り得ない感じがするね。
でも、その本を読んでなんかしら自分のためになるって思ったから買ったんだろうね。
ためになるて何?
成長するっていう感じかな。
なんで成長しなきゃいけないの?
成長。厄介な言葉。強迫観念だよね。それにはあんま触れたくない。
不安と表裏一体な気がするんだけど。
否めないよね。
恐怖とも関連がある気がする。あっ、恐怖と不安ってどっちが親なんかな?
それは人によるんじゃない?
不安と恐怖って包含関係で表したら、どんな関係になるんかな?
どっちかがどっちかに含まれる、みたいな単純な感じではなさそうだけど。
とりあえずここでは同義でいこうよ。
書いてて違いを発見したら、定義を書きかえりゃいいだけじゃん?
まぁそだね。
で、ここまでをまとめるとさ、読書は不安が根源にあるってことになっちゃうけど、
それでいいんかな?
それが全部じゃないことはもちろんだけど、そうとも言えるんじゃない?
多くの人が本屋に通いつめる。
しかもそれを変なことと思わない状態。
ここも一度疑ってみる必要があるんじゃない?
こんだけ集団で本屋に通い、小説、新書、英会話や経済、自己実現etc...
の本を立ち読み&買ったりするのって奇妙なことなのかもって思わない?
病気とも言えるんじゃないかな。
不安に駆られた病気。
成長パラノイア、ってやつ?川北稔先生の本で知ったんだよね。
読んでるお前も病気だなって言われたら何も答えられないけど。
で、僕はとんでもないところで割り切ることにした。
というか、違う視点から読書を定義づけてみようと試みた。
「読書はしないに越したことが無い。
もしくは完全な娯楽と考える。」
娯楽ってことは、ギャンブルみたいなものって考えてもいいかも。
部分強化みたいな考え方。
あたりの本とはずれの本があるから、人は読書を止められない。
今日買った本。
ショウペンハウエル「読書について」 ウィトゲンシュタイン「論考」
ということで、読書について。
この本を読む前と後でどんなふうに変わるか、気になるし。
本の読みすぎは毒。読んだ本の全てが血肉になる訳ではない。
だからたくさん読むことを目的化したり、義務化するのはnonsense。
自分がどういう本に興味を示し、その本の内容が血肉化するのに要する時間を見極めること。
これは本を読みながら同時進行で考えるべきこと。
Reading for information:80% Reading for formation:20%
(超意訳:読んだ本の8割は情報にすぎず、残りの2割が人格形成に役立つ。)
脈絡もないけど、この文章が頭に浮かんだ。
英文解釈教室の例文と、「8:2の法則」をヒントに、書いてみた。
書店で自分の人格形成に役立つ本が見極められたら苦労しない。
本屋に通い、色んな本に目を通し、情報を集めつつも、人格形成に役立つ本との出会いを期待する。
本屋をbrowse aroundする理由だ。
本屋に通って、平積みされた本に飛び付き最先端に着いていってると勘違いはしたくない。
ここでの積ん読が効果を発揮する気がする。
書店で目を引く本がある。
で、とりあえず買う。
買って本棚に置いておく。
もちろん、買った当日のテンションで読むのが一番いい。
買いたいと思った理由と気持ちの消費期限はその当日だから。
漫画でも、小説でも、学習参考書でも当てはまることだと思う。
でも、続かない本の方が多い。
少なくとも自分は。
それも仕方ない。と個人的には諦めていた。
ちょっと罪悪感を感じつつ。
僕の読書の基本は積ん読にあると思う。
とりあえず買う。
買ってから考える。
自分がすでに持っている本の中に位置付けてからじゃないと見えない景色があると思って。
実際にそうだし。
けど、これも狙って始めた訳ではないのだが。。
僕は本が読めないんじゃないかと思ってた。
今も少し思ってるのかも。
積ん読ばかりして、読書も習慣化しない。
一旦読み始め、もしハマると、時間を忘れ読み続ける。
小説の場合だとまるで映画のように感じてしまう。
本当に面白い小説だと読むスピードも上がって、集中力も長時間続く気がする。
けど、全然面白くない本だと、30分が限度。
読み続けられない。
何でこれを読まなきゃいけないの?とか
そもそもこれを学んで俺は何をしたいのか?とか
メタ知識への問いがボコボコ湧いてきて、読書どころじゃなくなる。
何かを吸収しようとするんじゃなくて、問いを立てる。
しかも根源的な問いを。
何よりも割り切ることが大切。自分でもよくわかってる。
けど、問いを立てまくる。
しかもすぐに答えが出ない問いばかり。
僕は読書ができないんじゃないか?
いや、そもそも読書ってなんだ?
読書って何のためにするんだ?
楽しいから始めたはずなのに、何で文句言いながら本を読んでるんだ?
しかも、いつの間にか本を読むことが過大評価されてる。
読んでないと知的に劣ってる、っていう変な風潮がある気がする。
そんなに読書ってすごいことだっけ?
そもそも頭がいいってなんだ?
頭がいいことに憧れを持ってる自分がいるけど、それはどこからくる?
頭がいい=知性?(なんか違う気はしてる。でもなんでだろう)
読書っていう言葉の周りにはあまりにも多くの通念が結びつきすぎている。
それを解いてみると何があるんだろう。
何で目の前に本がある?
作者がいるから。
何でいる?
何かしら伝えたかったんじゃないの?
誰かに何かを伝えたい、それを通して自分を表現したい。
そう思わずに書いてる人なんかいないだろうからさ。
じゃあなんでこの本がここにある?
そりゃ買ったからだろ。
じゃあなんで買った?
買いたかったから。
なんで買いたかった?
その時の自分に聞く以外、本当の答えは知り得ない感じがするね。
でも、その本を読んでなんかしら自分のためになるって思ったから買ったんだろうね。
ためになるて何?
成長するっていう感じかな。
なんで成長しなきゃいけないの?
成長。厄介な言葉。強迫観念だよね。それにはあんま触れたくない。
不安と表裏一体な気がするんだけど。
否めないよね。
恐怖とも関連がある気がする。あっ、恐怖と不安ってどっちが親なんかな?
それは人によるんじゃない?
不安と恐怖って包含関係で表したら、どんな関係になるんかな?
どっちかがどっちかに含まれる、みたいな単純な感じではなさそうだけど。
とりあえずここでは同義でいこうよ。
書いてて違いを発見したら、定義を書きかえりゃいいだけじゃん?
まぁそだね。
で、ここまでをまとめるとさ、読書は不安が根源にあるってことになっちゃうけど、
それでいいんかな?
それが全部じゃないことはもちろんだけど、そうとも言えるんじゃない?
多くの人が本屋に通いつめる。
しかもそれを変なことと思わない状態。
ここも一度疑ってみる必要があるんじゃない?
こんだけ集団で本屋に通い、小説、新書、英会話や経済、自己実現etc...
の本を立ち読み&買ったりするのって奇妙なことなのかもって思わない?
病気とも言えるんじゃないかな。
不安に駆られた病気。
成長パラノイア、ってやつ?川北稔先生の本で知ったんだよね。
読んでるお前も病気だなって言われたら何も答えられないけど。
で、僕はとんでもないところで割り切ることにした。
というか、違う視点から読書を定義づけてみようと試みた。
「読書はしないに越したことが無い。
もしくは完全な娯楽と考える。」
娯楽ってことは、ギャンブルみたいなものって考えてもいいかも。
部分強化みたいな考え方。
あたりの本とはずれの本があるから、人は読書を止められない。
わかるとできるは違う。できると教えれるは違う。
どれも後者が遥かに次元が高い。
もしわかることすら難しいことをできるように、さらに教えれるようになるには予想以上に時間と労力を要するようだ(僕もそうだと分かっただけ)
塾講師や家庭教師を経験させてもらって気付いたこと。
理解度の基準。
相手に教えられるか。
どんな相手にも教えられるか。
初心者、その分野を知らない人に教えられるか。
知識をたくさん蓄えて、そこから見える景色は確かに日常離れしたもので、気持ちが良いけど、そこから降りてくることで、得た知識は知恵に変わるんじゃないだろうか。
知恵は知識より密度が高いイメージがある。
さらに過程を経験しない人は知恵に触れることができない気がする。
つまり「これが知恵だよ」って誰かに渡すことはできないってこと。
それはせいぜい高級な知識でしかないんだろうな。
博識になることは時間を横軸、量を縦軸に取った一次関数のように考えがち。
でも本当は二次関数や指数関数のような形を描く。
少なくとも科学では。
博識になることは時間を横軸、量を縦軸に取った一次関数のように考えがち。
でも本当は二次関数や指数関数のような形を描く。
科学的には。
じゃあ知恵はどんな関数を描くんだろう。
僕は傾きが負の三次関数を描く。
生まれてからどんどん知恵から離れ、それに気づいたときには遅く。
そっから知恵に向かうもせいぜい極大値を取るのが精一杯。
そこからどれだけ知識をたくさんいれても今度は逆に知恵から遠ざかる。
値域は人によって違う。
それがポテンシャル。
定義域は人によって違う。
それが寿命。
だからxy軸をどのように取るかが人生のような気がする。
ここではx軸は時間、y軸はどれだけ知恵に近い状態にいるかどうか。
全部イメージなんだよね。
イメージのしやすさが全て。
どれだけ視覚的に伝えるか。
表現手段が乏しいから、例えばなしをいっぱい使って言いたいこと、言ってみたいことを表現してみる。
今回は数学の用語、技術を使ってみました。
視覚的に伝えることが最高の手段だって言われたらちょっと困るけどね。
これが少ない物語でたくさんのことを表現するってことなんじゃないだろうか。
ここでの物語は、道具と同義。コンピューターが良い例。
二進法。彼らは0と1しか使ってない。
関係性が無さそうなところに関係性を生み出す。
それが創造なんじゃないだろうか。
関係性はすでに存在したと考える?それとも生み出した瞬間から存在すると考える?実存が先か、本質が先か。
最近は「実存は本質に先立つ」の精神で、日常生活を生きてる(ウダウダ言ってばっかじゃなくて動く)ので、僕は後者を選択したいけど、Twitterに書きまくってる時点で、本質を追おうとしてる?ので、前者になるのかな。
単純にさっきの質問に聞かれたら前者って答えたくなる。
教えるって難しい。自分の理解の型を押し付けじゃ意味がないから。
学校はボトムアップ的に勉強するところ、塾はトップダウン的な視点を提供する。
これはあくまで大学受験までの話。大学の授業はどうとも定義できない。大学の為の塾などない。資格試験が存在する学問分野は別だけど。
いずれ大学の授業について書きたいな。
ジリジリ勉強しよう。ボトムアップ的に。たまに高いところに上って見渡してみよう。トップダウン的に。
どれも後者が遥かに次元が高い。
もしわかることすら難しいことをできるように、さらに教えれるようになるには予想以上に時間と労力を要するようだ(僕もそうだと分かっただけ)
塾講師や家庭教師を経験させてもらって気付いたこと。
理解度の基準。
相手に教えられるか。
どんな相手にも教えられるか。
初心者、その分野を知らない人に教えられるか。
知識をたくさん蓄えて、そこから見える景色は確かに日常離れしたもので、気持ちが良いけど、そこから降りてくることで、得た知識は知恵に変わるんじゃないだろうか。
知恵は知識より密度が高いイメージがある。
さらに過程を経験しない人は知恵に触れることができない気がする。
つまり「これが知恵だよ」って誰かに渡すことはできないってこと。
それはせいぜい高級な知識でしかないんだろうな。
博識になることは時間を横軸、量を縦軸に取った一次関数のように考えがち。
でも本当は二次関数や指数関数のような形を描く。
少なくとも科学では。
博識になることは時間を横軸、量を縦軸に取った一次関数のように考えがち。
でも本当は二次関数や指数関数のような形を描く。
科学的には。
じゃあ知恵はどんな関数を描くんだろう。
僕は傾きが負の三次関数を描く。
生まれてからどんどん知恵から離れ、それに気づいたときには遅く。
そっから知恵に向かうもせいぜい極大値を取るのが精一杯。
そこからどれだけ知識をたくさんいれても今度は逆に知恵から遠ざかる。
値域は人によって違う。
それがポテンシャル。
定義域は人によって違う。
それが寿命。
だからxy軸をどのように取るかが人生のような気がする。
ここではx軸は時間、y軸はどれだけ知恵に近い状態にいるかどうか。
全部イメージなんだよね。
イメージのしやすさが全て。
どれだけ視覚的に伝えるか。
表現手段が乏しいから、例えばなしをいっぱい使って言いたいこと、言ってみたいことを表現してみる。
今回は数学の用語、技術を使ってみました。
視覚的に伝えることが最高の手段だって言われたらちょっと困るけどね。
これが少ない物語でたくさんのことを表現するってことなんじゃないだろうか。
ここでの物語は、道具と同義。コンピューターが良い例。
二進法。彼らは0と1しか使ってない。
関係性が無さそうなところに関係性を生み出す。
それが創造なんじゃないだろうか。
関係性はすでに存在したと考える?それとも生み出した瞬間から存在すると考える?実存が先か、本質が先か。
最近は「実存は本質に先立つ」の精神で、日常生活を生きてる(ウダウダ言ってばっかじゃなくて動く)ので、僕は後者を選択したいけど、Twitterに書きまくってる時点で、本質を追おうとしてる?ので、前者になるのかな。
単純にさっきの質問に聞かれたら前者って答えたくなる。
教えるって難しい。自分の理解の型を押し付けじゃ意味がないから。
学校はボトムアップ的に勉強するところ、塾はトップダウン的な視点を提供する。
これはあくまで大学受験までの話。大学の授業はどうとも定義できない。大学の為の塾などない。資格試験が存在する学問分野は別だけど。
いずれ大学の授業について書きたいな。
ジリジリ勉強しよう。ボトムアップ的に。たまに高いところに上って見渡してみよう。トップダウン的に。