わかるとできるは違う。できると教えれるは違う。
どれも後者が遥かに次元が高い。
もしわかることすら難しいことをできるように、さらに教えれるようになるには予想以上に時間と労力を要するようだ(僕もそうだと分かっただけ)
塾講師や家庭教師を経験させてもらって気付いたこと。
理解度の基準。
相手に教えられるか。
どんな相手にも教えられるか。
初心者、その分野を知らない人に教えられるか。
知識をたくさん蓄えて、そこから見える景色は確かに日常離れしたもので、気持ちが良いけど、そこから降りてくることで、得た知識は知恵に変わるんじゃないだろうか。
知恵は知識より密度が高いイメージがある。
さらに過程を経験しない人は知恵に触れることができない気がする。
つまり「これが知恵だよ」って誰かに渡すことはできないってこと。
それはせいぜい高級な知識でしかないんだろうな。
博識になることは時間を横軸、量を縦軸に取った一次関数のように考えがち。
でも本当は二次関数や指数関数のような形を描く。
少なくとも科学では。
博識になることは時間を横軸、量を縦軸に取った一次関数のように考えがち。
でも本当は二次関数や指数関数のような形を描く。
科学的には。
じゃあ知恵はどんな関数を描くんだろう。
僕は傾きが負の三次関数を描く。
生まれてからどんどん知恵から離れ、それに気づいたときには遅く。
そっから知恵に向かうもせいぜい極大値を取るのが精一杯。
そこからどれだけ知識をたくさんいれても今度は逆に知恵から遠ざかる。
値域は人によって違う。
それがポテンシャル。
定義域は人によって違う。
それが寿命。
だからxy軸をどのように取るかが人生のような気がする。
ここではx軸は時間、y軸はどれだけ知恵に近い状態にいるかどうか。
全部イメージなんだよね。
イメージのしやすさが全て。
どれだけ視覚的に伝えるか。
表現手段が乏しいから、例えばなしをいっぱい使って言いたいこと、言ってみたいことを表現してみる。
今回は数学の用語、技術を使ってみました。
視覚的に伝えることが最高の手段だって言われたらちょっと困るけどね。
これが少ない物語でたくさんのことを表現するってことなんじゃないだろうか。
ここでの物語は、道具と同義。コンピューターが良い例。
二進法。彼らは0と1しか使ってない。
関係性が無さそうなところに関係性を生み出す。
それが創造なんじゃないだろうか。
関係性はすでに存在したと考える?それとも生み出した瞬間から存在すると考える?実存が先か、本質が先か。
最近は「実存は本質に先立つ」の精神で、日常生活を生きてる(ウダウダ言ってばっかじゃなくて動く)ので、僕は後者を選択したいけど、Twitterに書きまくってる時点で、本質を追おうとしてる?ので、前者になるのかな。
単純にさっきの質問に聞かれたら前者って答えたくなる。
教えるって難しい。自分の理解の型を押し付けじゃ意味がないから。
学校はボトムアップ的に勉強するところ、塾はトップダウン的な視点を提供する。
これはあくまで大学受験までの話。大学の授業はどうとも定義できない。大学の為の塾などない。資格試験が存在する学問分野は別だけど。
いずれ大学の授業について書きたいな。
ジリジリ勉強しよう。ボトムアップ的に。たまに高いところに上って見渡してみよう。トップダウン的に。