21. メトロ南北線 幻の「桐ヶ丘」駅 | tshellのブログ

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「鉄道」特に「撮り鉄」と「乗り鉄」を紹介します。

東京メトロ南北線の建設が具体化した1962年 (昭和37年)頃、営団 ( 当時 ) は車庫を北区の西が丘( 桐ヶ丘の南 ) に建設する予定でした、この場所は、かつて陸軍兵器補給廠があった場所で、戦後も米軍や自衛隊がいろいろな用途に使用していました。


戦前 この補給廠の近隣には軍の施設がいろいろあって、資機材や製品の輸送のために「赤羽」駅北方から単線の引込線が敷設されていて、戦後朝鮮戦争の頃まで使用されました。


【1945年(昭和20年)の地図。ピンクが最初の車庫候補地。ブルーが代案の候補地。中央の黄緑色が「桐ヶ丘」駅予定地。赤羽駅北方からピンク方向へ、そして途中で逆方向に分岐してブルー方向にも線路が伸びていたのがわかる。】



車庫の適地を探していた営団は、補給廠跡地と貨物引込線に目を付け、この地に車庫を建設しようと計画しました。


南北線の終点「岩淵町」( 現「赤羽岩淵」) 駅から引込線跡を最大限利用して補給廠跡まで線路を敷き、補給廠跡地に車庫 ( 大規模修理ができる工場も ) を建設しようと考えたのです。そして引込線の途中に「桐ヶ丘」駅を設け、鉄道空白地帯だったこのエリア住民の足の便に寄与しようとも考えました。ちょうど千代田線の「北綾瀬」駅と同じような考えです。


【このエリアの主な軍の施設。まさに「軍都」であった。】


ところが1973年(昭和48年)頃 車庫予定地周辺住民から建設反対の声があがり 交渉を重ねましたが建設合意には至らず、止むなく営団は近くの陸軍被服本廠跡地に地下式車庫を建設し地上部は公園•大規模避難場所にするという代案を提示しました。


しかしこの代案に対しても周辺住民からは強い反対が叫ばれ、車庫建設はデッドロックに乗り上げてしまいました。


一方「桐ヶ丘」駅周辺住民からは建設促進の声があがり、近隣の住民どうしが賛成•反対に二分されるという局面に北区も問題解決をいろいろ計りましたが、解決の糸口は見い出せず、ドロ沼にハマってしまいました。



結局、南北線建設を急ぎたい営団は、西が丘•桐ヶ丘地区での車庫建設をあきらめ 「王子神谷」駅近くに地下式の検車区と「市ヶ谷」駅付近に地下式留置線を設け 最低限の設備で開業時の運行を行うことを決め、1986年(昭和61年)「駒込」-「岩淵町」 ( 現 「赤羽岩淵」)の建設に着手しました。


これにより「桐ヶ丘」駅設置の話は無くなり、補給廠までの貨物引込線とその枝線も撤去され、跡地は緑道公園に ( 一部は道路などに ) 姿を変えました。


【左側は緑道公園の南側の終点。右側の道路のルートに貨物引込線の枝線が伸びていて、その先が代案の車庫予定地。( 冒頭の地図のブルー箇所 )  撮影者の位置が貨物引込線と枝線の分岐箇所。】



今この緑道公園を歩いてみると、レールと枕木をデザインしたタイルが敷かれ、花壇との境は鉄橋のトラス様の柵になっていたりと、引込線の名残りを感じさせてくれます。


【(左) レールと枕木模様、それに鉄橋トラス柵。 (右)「桐ヶ丘」駅予定地あたりには分岐器を思わせるレール模様。】



もしも「桐ヶ丘」駅が出来ていたら、鉄道空白地帯は解消されこの辺りの団地は高層マンション群になっていたんだろうな•••、この商店街ももっと賑やかになっていたんだろうな•••、 といろいろ想いを巡らせてしまいます。


【「桐ヶ丘」駅は左側のアパートが途切れた先を左に曲がって100m程のところ。青空の辺りには高層マンションが林立していた筈。そしてここ桐ヶ丘商店街ももっと賑わっていたにちがいない。】