悲し過ぎて起こるショック状態、現実逃避 | あなたが幸せで在りますように

あなたが幸せで在りますように

人と違う個性を輝かせて、自分も人も許し愛し、せっかく生まれて来たこの人生を幸せに生きていけるように応援しています。

大切な人を亡くした悲しみに終わりは来るのか?あるのか?

これを読んでくれているあなたはそんな思いを抱えているかもしれませんね。

私もずーっとそう思っていました。

息子を亡くしてから13年たった今、言えることは「あるよ。」です。

ただ、こう言えるようになるまでには長い時間がかかりましたが、悲しみはすーっと、自分の中に溶け込んで、絶望や喪失感ではなく、新しい自分の心の一部として受け容れることができています。きっとこの状態を悲しみの終わりと言うのでしょうね。この私の状態はグリーフの最終段階でもあり、順調に悲しみから回復していければ、最後には誰にでも起こることです。だから、あなたにもいずれ訪れることなのです。ただ、そこに至るまでには様々な心の葛藤があります。時間の長さも人それぞれです。

それを少し知っていただくと、自分の状態を知り、少しでも安心してもらえるかもしれませんね。そうなったらいいなと思うので、その段階を私の経験を通してお伝えしますね。


まず誰にでも最初に起こることは、拒否反応。

現実逃避とでも言いましょうか、感覚の麻痺が起こります。ショックの時期が来ます。

私の時にはどんかことが起こったか、息子が亡くなってから、荼毘にふされるまでの間の出来事で説明しますね。しばし、お付き合いください。


◆平成17年3月26日◆

病院の皆さんに見送られて

智を抱き、いつもの車にのり、家路に向かう。

悲しい・・・・そんな気持ちは一つも沸いてこなかった。

どちらかというと、3ヶ月に及ぶ長い長い入院期間が終わり息子をこうしてまた抱っこできたことや家へ帰れることの安堵感とうれしさでいっぱいでした。

息子は両足大たい骨骨折の為体幹ギブスという石膏のギプスをお腹から足先までしており、あわせて気管切開をのチューブや機械があり、

3か月以上ちゃんと抱っこしてあげられませんでした。だから、また、自分の胸元に抱けたことが嬉しかったし、機械もギブスもつけていない状態で智大が楽そうだったことも安心でした。できずにいました。

「智、おうちに帰ろうね~。やっと帰れるね~。よかったね、よかったね。もうらくちんだね。」


それしか言ってなかった気がします。

家についたのは20時ごろ。

それからお葬式の手配。

葬儀屋さんに来てもらい、打ち合わせ。

ここでもおかしなもので、私は葬式という悲しいものの準備というよりは智の晴れ舞台の準備をしている感覚で、色々と決めていました。

その合間には

布団に寝かされた智に今まで通り話かけ、


「ともは、このお棺でいいかな?子供用はこれしかないんだって」


とか


「ともの体をドライアイスで冷やすんだって」


とか


きっと他から見たらおかしなことをたくさん言っていたと思います。でもね、智大はもともと寝ている時間が長い子でしたから、その姿は入院前の姿となんら変わらす、ほんとにただ穏やかに寝ているとしか見えませんでした。だから尚更、智が死んだなんて感覚は一つも湧いてきませんでした。だからもちろん涙なんて一つも出ませんでした。だって、死んだということが、分かっているようで、全く分かっておらず、退院したという感覚で、智とゆっくりと家にいられるという安心感しか感じていませんでしたから。そのせいか、その夜はほんとうにぐっすりと寝られたのでした。

なんだか変ですよね。自分で葬式の準備をしているのに、死を理解してないなんて。


経験がない人からしたら


きっと想像しづらいことですよね。


え~~亡くなっても涙が出ないし、安心してよく寝られるだなて!!

死んだことを理解できない?

と驚かれるかもしれません。


死別の仕方にもよってこの反応はそれぞれなのですが、闘病の末というとこんな反応をする場合もあります。


これは後にショック状態からくるものだったんだと知りましたが、ホント、人は受け入れがたいことが起こった時には感覚がマヒするのだな

ということをこの時に初めて経験しました。


ショック状態で現実味がないせなのか、

智のお葬式の準備でさえ、今まで何一つとしてお祝いごとをしてあげられなかったことから

(お七夜、お宮参り、誕生日、七五三、入院ばかりしていてしてあげられなかったのです)

お葬式が最初で最後の儀式なのだから、盛大にしてあげたいという思いで,お金はいくらかけてもいいと思い、とにかく全て贅沢な物を選んでいました。棺も祭壇も花も装飾品も1番いいランクのものでした。霊柩車だって黒塗りの1番いいものを選びました。智大が障害者であると分かった日からこの子の将来にはいくらお金が必要と2年ため続けた貯金をこんなことでしか使えなかったのは残念でしたが、豪華なお葬式を出してあげられたのは思い返すと母親としての誇りです。


葬儀の前には智の旅たちをきちんとした礼装で送りたいと思い礼服を新調したほどでした。


お葬式の日、みんなが集まってくれて

つつがなく家での葬儀が終わり、

斎場へ向かう車の中から笑っている人を何人も見かけてああ、私の悲しみはこの人たちにとっては全く関係ないことなんだね。

私がこんな状況にあってもこの人達には何も関係ない、死んでも世の中には何も関係ないんだね。と、何とも言えない感情が沸いてきました。

そして思ったことは...

私の世界は変わってしまったけれど、


この人たちの日常は何も変わっていないんだ


こうして笑えるんだね。


世の中って、無情だ。。。。。。


と思ったことを今でもとっても強く覚えています。


それ以来、私は道で霊柩車や葬儀のバスで遺影を見かけると、手を合わせるようになりました。このお車、ご家族とすれ違ったのも何かのご縁。この方が過ごしてきた人生を思い、ご家族を悼みご冥福をお祈りしようと思うようになりました。



斎場につき、智を炉に送り出すとき正直自分が正気でいられるか分からなかった。


いざその時が近づいて献花が行われているのを見て、ああ、燃やされちゃうんだ。。。。燃やすなんてありえない!私の智がかわいそう!やめてよ~~と


私の思考はだんだんと狂気に傾こうとしていました。


その時、遠縁の5才くらいの子供が


「ともちゃん、行ってらっしゃい。またね」


って、言ってくれているのを見て、はっと、我に返りました


そうだね、ともはいなくなるんじゃない、体をなくし、神様のところに帰るんだね。


また、必ず会えるね。


瞬時にそう思えたのです。


もしあの子がそれを言っていなければ私は泣き叫んでいたかもしれません。


荼毘の時間、私は1人で外にいました。

ともが還って行く姿を見守りたかった。

智が空へ煙となって上っていく情景、

空へ還っていった姿は死ぬまで忘れません。



葬儀が終わり、胸にともを抱き家に帰ると


私はさっさと喪服を脱ぎ、普段通りの生活を始めました。


夕飯を作り、別れようとしている夫の世話をし


いつもの時間に床につき、寝る。


智がいないことへの戸惑いはこの時にはまだわいてきていませんでした。


現実ではないこと。。。。

非日常のことがちょっと起こっているだけの感覚でした。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

当時の私はこんな状態でした。あなたももしかしたら、今、同じように現実感のない生活や自分ではない自分を送っているかもしれませんね。

悲しみを少しでも緩和させて行く第一段階は現実を受け入れるということが大切になるのですが、この時の私はその段階がはじまったばかりだっと言えます。

受け入れられるまでの間、現実感がない状態の生活が続きます。

こうした妙な行動をしていたとしても、いずれ、現実に目を向ける時がきます。

私はいつ受け入れようと思ったのかよく覚えていませんが、遺品を整理し、前に進まなきゃと思った時だったように思います。



どんな悩みも、苦しみもそうだと思うのですが、自分が前に進もう。この状況を何とかしようという決意を持つことが、状況を変えていくことになるんですよね。


死別もそうなんだと今ではわかります。

ただ、そう思えるまでには時間が必要なのですけれどね。


その時間はどのくらいかかるか、

亡くした人、亡くし方によって違ってきます。

この悲しみがいつ終わるのか、

いつ軽くなるのか、誰にもわからない長い、長い旅です。


終わりがあるのか・・・・


不安で押しつぶされてしまいそうになることもあるけれど、必ず、いつか、自分なりの答えを見つけ、新しい場所にたどり着けます。


焦らずに一歩、一歩。少しずつ進んで行けます。すこしづつ故人がいない環境を受け入れていけます。大切な人を心のなかに置いて一緒に生きて行ける日が来ます。

大丈夫ですよ。



そして、最後にこれを読んでくれているあなが、大切な人を亡くした関係者だとしたら、知っておいてもらいたいのです。

涙も流さず、普段通りの生活を送れている人がいたら、あの人冷たいとか、気丈だねとか思わないで欲しいのです。

気丈なのではなくてあまりにもショック過ぎて、普段通りの生活を送らなければおかしくなってしまうから、精神を保つために、無意識にそうしているだけなんです。それを他の人は分からなくて、冷たいとか、元気そう、大丈夫そうと勘違いして、ケアーしてもらえないことがあります。とても残念なことです。


元気そうに見えている人ほどケアして欲しいのです。気遣いをしてあげてほしいのです。悲しいのに、哀しみを現せない状態に気付いてあげて欲しい。周りから見ておかしいだろう!と思う言動も悲嘆の中にいる人には起こる、心を守るためにしている正常な反応なのだと理解して欲しいです。

どうか、その人を1人ぼっちにしないであげてください。励まさなくてもいい、慰めなくてもいいから、ただ、側にいてあげてください。

私にはそれをしてくれる人が1人もいませんでした。それに、より随分と長く孤独な戦いをして来たように思います。そんな人が鋳なくなるように願わずにはいられません。

あなたの大事な人を支えてあげてください。

宜しくお願いします。



心理カウンセラー佐織より