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上弦の月 2010 0914 0850

月がしばらく見えなかったと思ってたら、南の方に見えました。今月の4日に見た、下弦の月の反対側に見えたんですよ。

星空に詳しい方、ごめんなさいね。こちらは、上弦も下弦もわからないいい加減な男ですから、そんなことがわかっただけで、うれしくてうれしくて、また写真を撮ってきました。

要は、先日の下弦の月が序々に欠けて行って真っ暗になり、今度は反対側から膨らんできて、9月23日秋分の日の満月に向かうということらしいですね。

ブログって、能書き垂れる爽快感もあるんですが、あんまりテキトーなことも書けませんから、そのために調べ物をして、知らないことがわかってくる楽しみがありますよね。

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会津 母成高原

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ボナリ高原ゴルフクラブ

会津の母成高原に来ました。といっても、今日はゴルフ。

郡山から、送迎バスで来たのですが、途中「母成(ぼなり)峠」を越えてきました。母成峠と言えば、戊辰戦争の時、西軍(新政府軍)が警戒の手薄なこの峠を破り、猪苗代を越えて会津に殺到した、言わば天下分け目の峠道。

こうなったらいけません。ゴルフの上達はとうにあきらめた男。坂道を降りる途中に戊辰の役の慰霊の石碑の看板も見えます。

「ゴルフより峠に行きてえ」

でも団体行動、そうもいきません。聞けばバスの運転手さん、終わるまでここで待つとのこと。「峠まで戻って、代わりに写真撮ってきて!」とお願いしました。でも無理でした。「走行距離が増えるからダメ」との、サラリーマン模範解答でした。

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名物ロングホール

気はそぞろ、合間にデジカメ写真、携帯写真。ゴルフの神様が怒り出すようなプレー振り。ところがこれが中々のゴルフ場。このホールなんか、ティーショットは磐梯山に向かって打つ。ところが、その手前は断崖絶壁。

ボク?チキンハートです。もちろん、そーっと左側から攻めましたよ。

でもいつしかまた妄想の世界に。西軍が母成峠に来た二日後、会津藩が幕府の京都守護職になるのを反対した、家老、西郷頼母(たのも)の一族21人が、虜囚となるを潔しとせず自刃した話などを思い出す始末。

こうなると、ますますいけません。バンカー(砂地)がフカフカの、今まで出会ったことの無い砂。歩くと砂に足がめり込みます。6回でようやく脱出、それがホームラン。吉幾三の「これがほんとうのゴルフ」♪オラこんなゴルフいやだ~、オラこんなゴルフいやだ~・・・じゃないですが、11回叩いてしまいました。

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安達太良山方向

もうゴルフはどうでも良くなってきました。

家老、西郷頼母の妻子の辞世の句は今でも涙を誘います。

「なよ竹の風に任する身ながらも たわまぬふしはありとこそきけ」   
妻 千重子34歳

「手をとりて共に行なば迷はじよ」       上の句       
下の娘 瀑布子   13歳

「いざたどらまし死出の山道」          下の句       
姉 細布子   16歳

と詠みました。自害の屋敷に乗り込んだ薩摩の侍「中島信行」は、見事な最期だったと述べています。

ところで、生き残った西郷頼母、その後榎本武楊らと函館五稜郭の戦いに参加したのだが、うとんじられていた藩主松平容保公から、その後頼りにされたりして、どうやら死に場所を失ってしまったようで、明治36年74歳まで生きたそうです。

藩主に背き、ただ一人幕府方につくことに反対したり、それでいて折々で藩主に頼りにされたり、魅力いっぱいの人だったようだが、一族二十数名自刃の後の生涯、どんな心境で生きたかは、今は知るすべもない。

ところで皆さん、この峠の紅葉は見事だそうですよ。10月初旬から中旬、どうぞお出かけくださいね!

「わかった!」帰りの新幹線、我に帰ったボクはようやくゴルフバージョンになりました。遅いっつうの!

バンカーだけは自信があったはず。わかったんですよ。フカフカのバンカー、足が沈んだ分だけボールに近くなってたんですよ。だからクラブが深く入って球が飛ばない。クラブをその分短く持てば良かったんですね~。

ボナリのキャディー、藤さん、「♪九つ十と十一と~」とダダこねました。ごめんなさ~い!


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切込焼 染付らっきょう形徳利

昔、やきものの職人は方々(ほうぼう)の窯場を渡り歩いたという。

そんな男たちのことを、人は「窯ぐれ」と呼んだ。元の言葉は「窯はぐれ」だろうか?

不良化することをグレるという。愚連隊(ぐれんたい)も、グレと隊の合成語らしい。「窯ぐれ」もどこかアウトローのイメージがする言葉だ。

江戸時代後期、現在の宮城県の西北部に「切込焼(きりごめやき)」と言う磁器の窯があった。そこにも、各地から窯ぐれが集まってきた。

男の名は「山下吉蔵(きちぞう)」

天保の終わり頃(1840年頃か?)秋田から職人数名と、妻を連れて切込の地にやってきて、やがては窯9つ、職人200人の棟梁となった。

今、その窯跡近くに「吉蔵」と妻「とめ」の墓が仲良く並んである。

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墓には吉蔵、元治元年(1864年)9月11日66歳 丹後国熊野郡久美浜村

とめ 秋田寺内村出生と刻まれている。

確実なのは、「吉蔵」が丹後半島久美浜で生まれたこと。40歳の頃だろうか、秋田の妻「とめ」を連れて「切込」にやってきてこの地で亡くなったこと。

何故、丹後から秋田、秋田から宮城の切込に窯ぐれてきたのかは、今はもう、誰も知らない。