切込焼 染付らっきょう形徳利
昔、やきものの職人は方々(ほうぼう)の窯場を渡り歩いたという。
そんな男たちのことを、人は「窯ぐれ」と呼んだ。元の言葉は「窯はぐれ」だろうか?
不良化することをグレるという。愚連隊(ぐれんたい)も、グレと隊の合成語らしい。「窯ぐれ」もどこかアウトローのイメージがする言葉だ。
江戸時代後期、現在の宮城県の西北部に「切込焼(きりごめやき)」と言う磁器の窯があった。そこにも、各地から窯ぐれが集まってきた。
男の名は「山下吉蔵(きちぞう)」
天保の終わり頃(1840年頃か?)秋田から職人数名と、妻を連れて切込の地にやってきて、やがては窯9つ、職人200人の棟梁となった。
今、その窯跡近くに「吉蔵」と妻「とめ」の墓が仲良く並んである。
墓には吉蔵、元治元年(1864年)9月11日66歳 丹後国熊野郡久美浜村
とめ 秋田寺内村出生と刻まれている。
確実なのは、「吉蔵」が丹後半島久美浜で生まれたこと。40歳の頃だろうか、秋田の妻「とめ」を連れて「切込」にやってきてこの地で亡くなったこと。
何故、丹後から秋田、秋田から宮城の切込に窯ぐれてきたのかは、今はもう、誰も知らない。


