金剛禅門徒の少林寺拳法修行記 -10ページ目

金剛禅門徒の少林寺拳法修行記

金剛禅門徒としての自覚を促すべく旧タイトル「練習日記(仮)」からタイトルを変更しました。

内容は変わりません。

よろしくお願いします。

自分が組織に何を貢献できるか。

組織の問題は何で、解決策はどのようなことか。



常に考えねばならぬことでしょう。



そしていつでも思うのは、高校生(男)の練習時間が短い。
技術・体力ともにない。
自然と自信もない。


ここに焦点を当てるのは組織目標である「青少年の育成」ともリンクしており、非常に重大な問題でしょう。

とはいえ、「自他共楽」もまた外せない組織目標。
指導に当たるあまりに自分の修行をおろそかにしてはいけない。

限られた時間の中でこれらの両立はとても難しい内容だ。



目的遂行を効率化するために、演武というものを利用してみようと思う。


具体的には・・・

◆演武を用いた総合的指導

○概要
大会用組演武(現演武パートナーと)とは別にもうひとつ演武を組む。

・案1:高校生と自分の組演武
・案2:現演武パートナーと3人掛け(もしくは4人掛け)演武を組む

 ※案1で3人掛け以上は想定しない
  ⇒高校生が過半数を占めると易きに流れる可能性が高い

○メリデメ

メリット

・個別指導・永続的指導により、基礎からの指導が可能。
・いろいろなかけ方を学ぶうちの道場において、高校生がどの技を
 学べばよいか混乱している節がある(先生の技が難解という点も
 あろう)。その中で、導入として、ひとつの技を一貫して学べる。
・高校生にとっては、大人と組むことで必然的にやる気が出る
 (さぼれない)
・父兄から出ているという、女子ばかりが指導を受けて不公平だ、
 という声の緩和につながる。
・確実に上手くなる。上手くする。



デメリット

・潜在的に、最大2人しか練習させられない。
 ⇒そもそもそこまでやる気あるヤツがいるのか?これが一番の問題だw
・その間誰が指導をするのか
 ⇒一般部なんだからそもそも自分で練習しろ。わからないところが
 あるなら聞きに来い。というか女子と指導をシェアすればそもそも
 万事解決。
・一人の技に偏る。
 ⇒最初の指針としてはむしろいいという説も。これは人によるだろう。
・なんなのあの人たち、という視線。
 ⇒ご自由に。俺は道場のことを思ってやってます。

・・・こんなもんかな?デメリットは全部拾っておきたいのだけども。


○主な指導内容
・体力
 現状は練習量が少ない。少なくとも毎日汗だくで帰ってもらう。

・突き蹴り
 不殺活人は「殺せないから殺さない」ではなく「殺せるけど殺さない」
 です。「殺せる」という選択肢がある中での意思決定が入るので、
 易きに流れない(暴力に訴えない)という精神力が育まれるのです。
 (↑持論。一般論ではない)

・間合い
 安易に入ってきやがったら待ち蹴り食らわしてやる。

・目配り
 これは3人掛けのほうがいいなぁ。八方目とか。

・科目
 一番飛びやすい、かんたんな投げを1パート入れて飛受身の練習は
 させる。それ以外では全部転がし。しっかりかけるということを
 学んで欲しい。出来れば痛みでとる柔法とふわっと転がす柔法両方
 入れたい。

 剛法は、とりあえず中段は全部本気で当てさせる。こちらの攻撃は当て
 止めだろうな。寸止めはない。攻撃が自分まで届くタイミングを学ばせる
 ためにも、当て止めは最低限必須。


挙げればきりがないので割愛。


ま、あれです。
先輩との指導演武って自分もやったことあるけどしんどすぎるからね。。
特に僕はかなり厳しいので、どうせ誰もやらないんだよ。

3人掛けだったらちょっとは入りやすいかな?
むしろ逆かw

2人からダメ出しされ続けるって鬼畜やなw

一応声掛けしてみて、そして頓挫するんでしょう。
浪人時代に道場通いしていた頃からの疑問です。


体育の日に、少林寺拳法の道場はお休み(祝日だから)。



んー、解せん。





解せんですよ。



運動しようよ。一日中。
今日も京都で練習だ♪

筋トレはスクワットのみ。
あとはナチュラル筋トレとしてサンドバッグを。

あえて肘を開いて胸に負荷が掛かるようにたたいたり、手でなく体幹の力をもちいてたたいたり。

やっぱりこれが一番健康的な気がします。



あとは柔軟やって柔道家と力比べ。やっぱり柔道は強い!てかそいつは強い!

いい勉強になりました。ええ。

いまさらながらにこの話題。



卍→双円となってから、今まで発刊していた少林寺拳法関連の書籍・DVDが(卍が印字されているという理由で)次々と廃刊となっていきました。

数ヵ月前までは本屋で『少林寺拳法』という言葉は見かけないまでになっていたかと思います。


何とも淋しい状態でした。なにより、初学の人が自習のしづらい環境がよくない。


先生に手を取って教えてもらうのが第一義であることに異論を挟む気はないけども、『人十度我百度』を実践するのであれば、自己の裁量で練習できる環境もまた必要なのではないか。




僕が入門したての時には(門外不出とかそういった知識がなく)空手やバスケの本を買いに行くのと同じ感覚で書店に少林寺の本を求めに行きました。そしてそれは実際に置いてある(図解コーチ)。当然と思っていたし、恵まれてるとは正直思わなかった。そしてこれからも当然であってほしい。




少林寺拳法が高体連(だっけか?)に加盟するというのに、他の加盟スポーツのように学ぶ土台ができていない。正直高校での少林寺は指導者不足・名義貸がまだまだ問題として残っているという認識が僕にはあります。





そういった状況下での『はじめよう!少林寺拳法』の発刊。


内容に是非はあるやに聞いているが、初学者のための導入としてはすばらしいのではないか。ディテールについては道場で別個に聞いたらいい。

そもそも入門時は技の名前と大まかな動きを覚えるだけで精一杯だし、拳系毎の特徴や少林寺拳法の思想・歴史などを立ち入って学ぶ場をつくるなんて、限られた時間のなかでは現実問題難しいだろう。



そういった点を補うものとして、今回の発刊は絶賛したいと思う今日この頃。

突きや蹴りと言った動作は、初学の頃においては意識は他者と触れる末端部にあり、熟達するにつれて中心に意識が遷移していく、とは前々から思っていたことではありますが・・・

(『中心』がどこを指しているのかはまだ僕のいきついていないところです。骨盤?肩甲骨?背骨?この三つを総合したもの?丹田?よくわからんです。)

今日なんとなく骨盤を意識する蹴り方がわかってきました。

今までの意識の在り方を、順次思い出すと、

『力積を出すには膝を振りぬくように入れ込んだほうがよく、衝撃力を出すにはインパクトの瞬間に膝が急速に展開している状態かつ150度ぐらい展開したポイントで蹴る』というのが大学幹部時代。

こんなんでも一応そこそこは蹴れてる自負はありました。

その後体力の衰えはあるものの、日常的に体を動かしてたとき(M2)に『軸足の膝、股関節、蹴り足の膝を一本の線として、これがシャフトのように回転するとスムーズに蹴れる』と思った時期がありました。あまり刷り込みをする時間がなかったのでどれだけ自分の動きとして取り込めていたかは不明です。

で、今日、蹴り足をあげた状態から骨盤を動かすことで、とても自然に上の『シャフトを廻すような』形の蹴りが蹴れることに気が付きました。

骨盤と大腿骨の接続の仕方とかを考えるに、たしかに自然な動作なのだと思います。


まぁでも廻し蹴りしかまだ蹴れませんし直蹴りは自分でもまだまだ疑問が多くあります。そこに加えて打蹴や返蹴、足刀などあるのだから道は長く険しい。


それと、やっぱり一人自主練は大切であると痛感した。一人であ-でもない、こ-でもないといって練習しないとどうしてもわからないものというものがやっぱりある。

もちろん当然「一人練習じゃわからないこと」もたくさんありますが。


しばらくは道場では体力トレーニング、それ以外では自分であれこれ考えてみるか。

会報。いろいろと問題があり、僕も個人的には最近のものは好きではありません。


昔の会報には技術論も多く載っていて、純粋に勉強になるということもありましたし、何よりも本部の試行錯誤が見て取れて好感がありました。



「基本間合・遠間・近間」といえば、よく剛法の突き蹴りで用いられる言葉ですが、もちろん柔法にも適用されます。


それ自身は特段何の不思議もない話なのですが、たしか昔の会報には「基本間合・踏み出し間合い・安定間合い」という名前で噛み砕いた説明がしてあったように思えます。


なるほど、近間・遠間では、突き蹴りでは遠いと届かない、近いと危険ということがわかりやすいですが、柔法では遠かろうが近かろうが相手と接触している分には逆に間合いに気付きづらくなっています。


さらに、近い方がいいのか、遠い方がいいのか、よくわからないところもあるかと思います。


そのときの会報では、

踏み出し間合い=間合いが遠すぎて、技をかけようとすると、相手が安定を求めて足を一歩踏み出せてしまう間合い

安定間合い=間合いが近すぎて、技をかけようにも相手の重心が相手の足の真上にあり、膝を曲げる(もしくは腰を折る)ことにより、重心を安定させてしまう間合い


とあり、そのどちらでもない間合い(基本間合、「崩し間合い」と言っていたかも)でかけると、そのような問題を避け、技が成立しやすい、といったことが書いてありました。


今ではあまり言いませんね。なぜでしょう。何かしら不備でもあったのかな?

でも、それはそれでいいんです。本部のそのときの試行錯誤が(少なくとも僕には)伝わり、「ああ、こういう考え方もあるんだな」と、技に対する考えた方が柔軟になり(多角化し)、自分の技の研鑽につながればそれで十分でしょう。



一時は柔法の「崩し・落し・外し」が脚光を浴びてたかと思います(今もかな?)


それと同時にあった剛法の「外し・合わせ・当て」はあまりはやらなかったように思えますが、これは僕の勝手な主観かもしれません。


あ、柔法で言えば50周年記念あたりのタイミングで「逆手の補助線」というものもあったか。


あとは本部主体ではないけど森道基先生の「三角技法」が有名ですね。



話が逸れました。


◆崩し・落し・外し

「崩し」は相手の重心を支持面(両足の足刀側を横辺、両つま先を結んだ線を上辺、かかとを結んだ線を下辺とした四角形)上から外し(もしくはぎりぎり面の淵上に持って来て、安定を奪うこと。

プールサイドから、人をプールに落とそうと突き飛ばすと、水辺で両手を仰ぎながら「おっとっと」という状態になりますよね。あの状態にすること(本部は「人のモノ化」とも言ってたかな?)。


「落し」は、その「モノ化」され、自由を奪った状態から、相手の重心を低い位置に落とさせること。

相手は安定を求め、「おぼれるものはわらをも掴む」という状態で、何かにしがみつこうとします。

その「何か」が技をかけている自分の手になっている、と。


「外し」は、その唯一の支えである自分の手(相手の重心の寄りかかっているもの)を取っ払ってやること。

それにより、相手は支えをなくし転ぶ(飛ぶ)という段取りです。


よくもまぁ考えたものですね。


書いてて思い出したんですけど、崩し・落し・外しの一段階前のプロトタイプと呼べるものがありました。

「①おじぎ:腰の前方への90度回転」「②ねじり:腰(膝?)の横への90度回転」「③重心をつま先に載せる」

この①②③を、どの順番にでもいいので作り上げると、全てが整ったときには相手は立っていられない(転ぶ)というものです。


③⇒①⇒②が崩し・落し・外しの順番ですね。他の順番はだめだったのか?まぁそれはどうでもいいんです。なぜなら(ry


外し・合わせ・当ては、純粋に「攻撃線」を意識しろ、というものです。

相手の攻撃線から自分の急所を「外し」、自分の攻撃線を相手に「合わせ」、そしてその磐石の態勢を作り上げた後、攻撃用器を相手に「当て」る。わかりやすいけど眉唾な、そんな感じでした。


この攻撃線を意識した練習方法で「三角交差法」とかいったものを本部合宿で教えてもらいましたが、あれは結構面白かったです。


じっくりやらないと身につかず、なおかつぱっと見何の練習かわからないので、あまり継続的にやっている人は少なさそうですが。


この三角交差法で思い出したんですが、同時に習ったもので「戦術組成」というものがありました。


ひとつの体構えを自分で選んで、そこから、相手が右の上段逆突きを突いてきたらこう捌く。

左廻し蹴りならこう捌く、掴んできたらこう対処する、とあらかじめ決めておいて、それを徹底的に刷り込む。

そして最終的には自由攻防で使えるように、というものでした。




いやー、こう考えると、本部もいろいろ考えてますね。


単に薀蓄を述べつらおうと思っていただけだったんですが、最終的に本部を見直す形で終わりました。


まぁ最近の会報はこういう動きが全く見れないのでそういう点はだめですね。求む改善。





・受けの手について

同じ内受でも内受突の内受と燕返の内受は異なる。
下受についても下受蹴・小手投・下受段突ではそれぞれ異なる。

内受では内受突用のものが、下受では小手投のものがそれぞれ「押し切る」ような受けとなっている。

この「押し切るような受け」の際、まず肩腰を返して、後に手が出るというのが基本(←当然っすな)

今回の気付きは、肘から先に意識があると受けが上手くいかず、肘より手前側(二の腕あたり、更に言えばやや内側)に意識をおいて、肘から先はないものとして受けると意外と上手くいくことが多いように思えた。


・受けの体捌きについて

最近のマイブームです。
やはり相手が突いてくる際の重心移動に対応させてこちらも反身をすることで的を絞らせ、突きのモーションになってから横に反らす(振り身)と良い感じらしい。

振り身がはやいと移動した先の顔を殴られる。
相手の突きをひきつけるのが大事ですな

昔「相手が動いてからかわせばいいんだよー」と軽々しく言ってるような技術書だか漫画だか、はたまた知人が言ってたのか忘れましたが、そんな言葉がありましたが、なんとなく意味がわかってきました。反身でちょっと観察して、あとは動いたのを確認しつつかわせばOKです

ちょっと屈伸入れればもう自然と流水受になりそうです。


・演武

腰が高い。突っ立っている。足腰のトレーニングを怠ってきた結果です。無様ですな。
再三書いております内容です。

今、相手の上段への突きをかわす練習に取り組んでおります。

相手が重心移動しているときに、こちらは上半身を反るようにすることで、相手に的を絞らせ、かつこちらは相手の攻撃をしっかり見る。

そして、突きの動作に入って拳が出るや否や横に変化することで紙一重の避けを実現する。

言葉でいっても壮大なのですが、果たしてこれが可能なのか?

道場の人とやったときにはおおむね良好でした(一発目に当てられました)

大学の後輩についてきてもらったときにもまま良好でした。
(不意の一撃を避けれず、鼻にもらってしまいました。低い鼻でよかった。)

目に喰らった方は横への捌きが不十分であったことが原因。
鼻に喰らったのは(初段取ったばかりで突きがおざなりなため)典型的な手のみの突きで、逆に予測できなかったのが原因。ほんとに不意を突かれたってやつです。

上段のみ。直突きのみ。フェイントなし。

これならまぁそれなりに出来ているのかもしれません。

でも・・・・

部活の後輩でもとボクサーの子に聞いてみました。

「ボクシングってスウェーやダッキングで相手の突きをかわしてるけど、なんかコツあるの?」
後輩、応えて曰く
「常に体を動かして、相手のフェイントでも何でも全てかわすつもりで頭を振ります。」

んー、求めているものとは違うんだよね。。。。

さらに続けて曰く
「でも、実際にすべての突きを見切ってかわすなんてことは不可能ですよ。もしそれが可能ならボクシングはもう廃れているでしょうし、それを技術として出来るならボクシングチャンピオンはすべて技巧の卓越した老人のはずです。」

だよねー。俺もそう思う。

とりあえず今の技術の精度をもっと高めよう。
その上で、この技術が全体的に使えるものなのか考えよう。
同時に、自分が求めている技の形を再度考えよう。

多分、今練習している技術は僕の動きの中で主ではなく、あくまで隠し味的な従の部分として落ち着く気がする。

たぶん基本は手さばきで攻撃をいなして、こちらが反撃する一撃を定めて、
「ここだ!」というときに使う・・・使えたらいいなって感じかな。

むっずいのぉ。

流水蹴というか流水というか、そもそもの体の捌きです。



いま練習してる体の捌き(まだ上段への直線攻撃のみ)


1、相手の攻撃意欲を感じた際に背伸びする感じでお腹を反らして顔を相手からやや遠ざける。

2、反ることで相手の突きを呼び込む。

3、相手の突きが飛んでくる際、それを(八方目で)見つつ顔を半分横にずらし、突きをかわす。




少し慣れてきて、1から3の動作が流れるようにできるようになってきた。



しかし流れすぎてぞんざいになってる気もするのでそこは毎度意識して微調整。(今日は調整が効きすぎて右目を思いっきりどつかれた。今きんきんに冷えたビールで冷やし中)



昔抱いていた『流水』のイメージに動作がリンクしているのがうれしい。目的・目標とするイメージははっきりしてる。



インクを少し混ぜた水の中で物体を横に急速に動かしたら水はどうなる?



一瞬流れに従い押されるように後ろに下がり、その後嘲笑うように横に流れていく。
物体の動きが速いほど後ろへの下がりは重々しく、横への動きは速い。
求めるイメージはそんな感じ。


ここまで出来てればあとは回数をこなすだけです。右目の痛みなんてどうってことはない。

少林寺拳法という武道団体があります。

もとは開祖宗道臣が人づくりのために始めたもので、今ではなんのこっちゃわからない状態になりつつありますが、武道団体の規模としては相当なものがあります。

僕の武専本科の修了論文でも書いた話なのですが、昔は「少林寺拳法とは何か?」という問いには「開祖に聞け」という答えが正しい答えだと思えるような時代だったのかと思います。上に準拠した答えとして「開祖のような人間になるのが少林寺拳法の目的」という言葉を聞いたことがあります。

補足1:今では(というか本部を離れた道場では)「道院長のようになれ」という言葉に置き換わる、と上記発言を聞いた(読んだ)ときにセットで聞いた(読んだ)と思います。

補足2:むしろ「なれ」と言われて育つのが目的というか、「わしのようになれ」と(質を伴って)いえるような人間を作るのが真の目的でしょうか。

とはいえ、開祖が亡くなってから生まれた僕には開祖がいた時代の少林寺のすばらしさは実のところわかりません。

しかし求心力が衰えていることは明らかでしょう。それは別派活動や少林寺を離れていく人の数(もしくは割合)で比べればわかることです。

さて、別派活動や少林寺離れですが、

今まで白蓮会館や東洋拳法、拳正道etcいろいろありますが、形こそ少林寺拳法のままであれ、そこまで「あれ?これって少林寺拳法では?」と誤解を生むようなことはなかったかと思います。

しかし禅武拳法。これはもう見た目からして少林寺拳法。
マークが変わっているだけで道着の作りもそうですし、法衣まである。

ちょっとこれはいくらなんでも・・・節操なくね?
http://zenbukempo.web.fc2.com/

もし少林寺拳法を離れるのであれば、技までは捨てろとは言わないし(どのみち格闘技・武道は同じ『人』を対象としているものなので、自然と突き詰めていったら形も似てくるでしょう。すなわち人間の構造が決まっている以上、技の形もある程度決まってくると思っているので、そこに「少林寺の技」という既得権益はないと思っています。技の名称まで来ると話は別ですが)、少林寺を離れるのを悪いとも言わないけども(「少林寺で得たものは少林寺に返せ」という開祖の言葉はありますが。この人たちは返しきれたと言うことでしょう)、去るなら去るできっちりと線引きをするのがスジかと。


まぁ僕自身少林寺拳法の意味不明な「少林寺拳法」としての枠組みがいやになることもあります。

やれ「楽しくない(楽じゃない)のは少林寺拳法じゃない」やら「その技は少林寺拳法ではない」やら、「痛い技はランクが低い」と「痛くない技は少林寺でない」のどんぐりの背比べやら、「こう動いた方が演武の点数が高いから」とか、「一歩踏み出(ry」とか、「乱捕りは少林寺でない」とか、「イッツ”行”スタイル」とか、「本当の少林寺は云々」とか

毒をたくさん吐きましたけど、別派に行くのも悪くはないと思うこともあります。ただ、僕は少林寺で得たものを全く少林寺に返せてないので当分はないでしょう。
(昔の日記参照)

ただ、あれです。武専の論文での要旨なのですが、少林寺拳法連盟に属していることが少林寺拳士としての本質ではないと僕は思っています。

少林寺拳法以外の人でも、「少林寺拳法らしさ(これは人によっては異なる概念かも知れませんが)」を持っている人なんて五万といる。

組織・段位によりかかって少林寺拳士たろうとしても、それはあくまで形式の話で、真に少林寺拳士たろうとする者は「組織・段位」に甘えることなく、自己を高め、その自己を持って他人に影響を及ぼしていこうと思うことが大事なんでしょう。(これが僕の思う少林寺拳法らしさです)

少林寺拳法連盟に属するか否かは二の次です。

なので、別派に行く人を咎める気は毛頭ないんですけども、もう少し節度をもって欲しいところです。



・・・こういうことを書くから「あいつは考えが堅い」とか言われるんですね。