少林寺拳法の枠の内と外 | 金剛禅門徒の少林寺拳法修行記

金剛禅門徒の少林寺拳法修行記

金剛禅門徒としての自覚を促すべく旧タイトル「練習日記(仮)」からタイトルを変更しました。

内容は変わりません。

よろしくお願いします。

少林寺拳法という武道団体があります。

もとは開祖宗道臣が人づくりのために始めたもので、今ではなんのこっちゃわからない状態になりつつありますが、武道団体の規模としては相当なものがあります。

僕の武専本科の修了論文でも書いた話なのですが、昔は「少林寺拳法とは何か?」という問いには「開祖に聞け」という答えが正しい答えだと思えるような時代だったのかと思います。上に準拠した答えとして「開祖のような人間になるのが少林寺拳法の目的」という言葉を聞いたことがあります。

補足1:今では(というか本部を離れた道場では)「道院長のようになれ」という言葉に置き換わる、と上記発言を聞いた(読んだ)ときにセットで聞いた(読んだ)と思います。

補足2:むしろ「なれ」と言われて育つのが目的というか、「わしのようになれ」と(質を伴って)いえるような人間を作るのが真の目的でしょうか。

とはいえ、開祖が亡くなってから生まれた僕には開祖がいた時代の少林寺のすばらしさは実のところわかりません。

しかし求心力が衰えていることは明らかでしょう。それは別派活動や少林寺を離れていく人の数(もしくは割合)で比べればわかることです。

さて、別派活動や少林寺離れですが、

今まで白蓮会館や東洋拳法、拳正道etcいろいろありますが、形こそ少林寺拳法のままであれ、そこまで「あれ?これって少林寺拳法では?」と誤解を生むようなことはなかったかと思います。

しかし禅武拳法。これはもう見た目からして少林寺拳法。
マークが変わっているだけで道着の作りもそうですし、法衣まである。

ちょっとこれはいくらなんでも・・・節操なくね?
http://zenbukempo.web.fc2.com/

もし少林寺拳法を離れるのであれば、技までは捨てろとは言わないし(どのみち格闘技・武道は同じ『人』を対象としているものなので、自然と突き詰めていったら形も似てくるでしょう。すなわち人間の構造が決まっている以上、技の形もある程度決まってくると思っているので、そこに「少林寺の技」という既得権益はないと思っています。技の名称まで来ると話は別ですが)、少林寺を離れるのを悪いとも言わないけども(「少林寺で得たものは少林寺に返せ」という開祖の言葉はありますが。この人たちは返しきれたと言うことでしょう)、去るなら去るできっちりと線引きをするのがスジかと。


まぁ僕自身少林寺拳法の意味不明な「少林寺拳法」としての枠組みがいやになることもあります。

やれ「楽しくない(楽じゃない)のは少林寺拳法じゃない」やら「その技は少林寺拳法ではない」やら、「痛い技はランクが低い」と「痛くない技は少林寺でない」のどんぐりの背比べやら、「こう動いた方が演武の点数が高いから」とか、「一歩踏み出(ry」とか、「乱捕りは少林寺でない」とか、「イッツ”行”スタイル」とか、「本当の少林寺は云々」とか

毒をたくさん吐きましたけど、別派に行くのも悪くはないと思うこともあります。ただ、僕は少林寺で得たものを全く少林寺に返せてないので当分はないでしょう。
(昔の日記参照)

ただ、あれです。武専の論文での要旨なのですが、少林寺拳法連盟に属していることが少林寺拳士としての本質ではないと僕は思っています。

少林寺拳法以外の人でも、「少林寺拳法らしさ(これは人によっては異なる概念かも知れませんが)」を持っている人なんて五万といる。

組織・段位によりかかって少林寺拳士たろうとしても、それはあくまで形式の話で、真に少林寺拳士たろうとする者は「組織・段位」に甘えることなく、自己を高め、その自己を持って他人に影響を及ぼしていこうと思うことが大事なんでしょう。(これが僕の思う少林寺拳法らしさです)

少林寺拳法連盟に属するか否かは二の次です。

なので、別派に行く人を咎める気は毛頭ないんですけども、もう少し節度をもって欲しいところです。



・・・こういうことを書くから「あいつは考えが堅い」とか言われるんですね。