金剛禅門徒の少林寺拳法修行記

金剛禅門徒の少林寺拳法修行記

金剛禅門徒としての自覚を促すべく旧タイトル「練習日記(仮)」からタイトルを変更しました。

内容は変わりません。

よろしくお願いします。

社会人ショウリンジャーです。


働きながら武道をするということの大変さを実感しております。

武道を通じて、人体の作り・より良い動きとは何かなどを探求していきたいと思ってます。


・・・典型的文科系ショウリンジャーかもしれません。


乱捕好きですよ。一応。

Amebaでブログを始めよう!

前置き書いてたらむちゃくちゃ長くなったので全割愛。



「金剛禅の思想の元に団結する」


団結に調和は不可欠。

ディテールに拘らざるを得ない「技術論」を中心に団結しようとすると次第に細分化され最終分解瓦解すると思います。


「調和」と「区分」は相性が悪い。区分をしないと大味すぎて具体性に乏しく、区分を強くするとセクショナリズムが働き「うち」と「よそ」が生まれてくる。そして細分化は区分無くしては行えない。


すでに、、、


大学支部と道院との区分、〇〇先生の技が素晴らしいんだ、という区分、などなど、もう顕在化しかけている。


皆が今一度団結するには開祖の遺訓である金剛禅の思想という大枠の中で、技術という大同小異には眼をつぶる必要がある。これは決して技術を軽んじ「追及しないくても良い」というわけではなく「各人が十分に追及し、細部にまで拘った上で、でも大きな目的(金剛禅運動)の前では些細な違いでしかない。あの先生とは技が異なるけども同じ金剛禅の同志」という意味合いでの大同小異をみんなが思う必要があると思うということです。


だが、、、


平成26の組織改革時の本部の言い様のように、だれかが開祖の思いを語るときには政治的なバイアスを感じてしまう(開祖の願いは道院組織にこそあった、とか。)という、金剛禅のはずなのに聞いた人の頭の上に「あれ?そうだっけ??」とはてなマークがつくこともある。開祖は時と場に合わせて色んな角度でお話をしてたので、切り取り方によっては開祖の言葉を利用した煽動のようなものができてしまう。


すると、何を旗印に団結すべき?教範?


とすると一方で


「教範のここの記載は間違えている」とか「わからないようにわざと嘘が書いてある」とか、どうにも教範の不信感?軽視?の風潮もないではない。『師事して会得のこと』とあるが、開祖は勘所は言葉に出来ないもののそれなりに正しく伝わると期待していたのだろうが、70年にして既に人によってだいぶ異なる。



今はまだ開祖の直弟子もご存命であるが、今後、例えば僕が現役を退く頃(もう40年後ぐらい?)にはどうなっているのかとても心配。



おそらく3・40年後には(だれもかれもが言うこと異なっていて収拾がつかず)「一度、教範の記載に立ちもどろう!」という機運が生じると思う。これは僕の予測です。きっとなると思う。



その時を思えば、まだ開祖直弟子がご存命な中で「教範みても、わかんないよ笑」とか言ってるこの時代が本当にダメな時代と判断されてしまうのではないか。。。きっと今やっておくべきことは色々ある。


皆様、これからの金剛禅についてどうお考えですか?


ブログランキング参加してみました。もしよければクリックお願いします。

にほんブログ村 格闘技ブログ 少林寺拳法へ
にほんブログ村


教範の写真(後ろ)これだけでした。




久々の更新です。先日達磨祭※も挙行されましたので少しスピリチュアルというか精神的な話を。


※金剛禅の儀式の1つ。インドから釈尊の教えを中国へ伝えた達磨大師を祀る祭事。


私たち人間はすべからく有限の時間を生きています。10代とかでは人生はずっと続くような錯覚に陥りがちですが、いつか確実に人生は終わります。それが長いか短いかは人によりますが。また、人によると言っても、その長さを予見することはできません。余命を宣告されても長生きする人もいますし、僕だって今日この後交通事故で死んでしまうかもしれない。

そういう長さは不確か、終わることは確定、というある種心もとないルールの中に自分の生はあるわけです。


「リスク」という言葉があります。日本語にすれば「危険」ですし、統計学で言えば「ボラティリティ」これは『不確かさ』という意味で差し支えないように思えます。


今の世の中はリスクを見る時代だと思います。皆さんも生命保険や損害保険、医療保険や年金保険などいろんな保険に入りリスクをヘッジしたり、企業もERMなど、リスクを基準とした経営判断をすることが増えてきています。


リスクに備えることは素晴らしいことです。否定はもちろんしません。リスクを予見し、誰にも率先してそれをヘッジしみんなを守るのもリーダーに求められる資質です。

ただ、自分の人生を考えた場合にあまりに過度にリスクばかりをみてしまうと、ややもすれば人生が矮小化してしまう懸念もあるかと思います。


極端かもしれませんが自分の「人生設計」を考えた場合に、人生におけるリスクを先に見るのか、やりたいことを先に考えそれに伴うリスクを評価するのか、それによって生き方や考え方は変わるのではないかと思うのです。


人生は不確かなので、将来への不安は誰しもがあります。ただ、自分の人生は有限です。リスクをヘッジした後にさらなるリスクをヘッジするべくあくせくしてる間に終わってしまいかねません。また、何もしてなくても時間は過ぎていきます。終わりに確実に近づいていきます。


そういう人生もまた1つかとは思いますが、今、自分の背負ってる責務や仕事とか一旦置いておいて、心を澄まして「自分の命を何に使いたいのか」と問うた時に、それに敵う人生を歩めているのか、そこを自ら今一度問い直したいと思いました。


仕事が忙しいからと何もできない人もいます。仕事が趣味で定年後に呆然とする人もいます。最近知り合った50代の方で「昔少林寺拳法をやっていて大学卒業でやめてしまったが、あれは素晴らしいものだった。続けておけば良かった」と初対面の僕の前で泣きそうになりながら語った人もいました。



生を偸むものというべし。後悔のない人生を歩むために、あなたがあなたらしさを発揮するために、あなたはあなたの残りの命を何に使いますか?

ブログランキング参加してみました。もしよければクリックお願いします。

にほんブログ村 格闘技ブログ 少林寺拳法へ
にほんブログ村





少林寺拳法の技は沢山あります。左右裏表合わせると600を超えると言われるその技全てに精通することはそもそも難しく、武階が進むにつれ技の共通点をより意識し、基本となるものを押さえたら残りはその派生だという形で多くの技を体系立てて学んで行くのが本筋かと思います。

個別性ではなく技の類似性から、その本質を学ぶと言い換えられるかもしれません。


しかし類似性ばかりでは、個別の技をかける際、むしろ教える際に、『なぜこの技は他の技と区別されているのか』が説明できなくなり、「まぁ、同じようなもんだよ」と言う受け取り手に対してあまりにずさんな指導しか出来なくなります。


また、そもそもに(危険技等の理由で師匠が道院内での練習を禁じていた等の理由で)細かい部分がわからない技もあります。今回は自戒も込めて列記してみたいと思います。要は「僕のまだわからない事集」です。お恥ずかしい。


①巻十字小手

肘を痛めるから練習するな。するまでのものでもない。と言われてた技です。

背中を向けて逃げられた時にこちらももう一歩相手の回転と同じ方向に回転しつつ肘をさらに入れて十字に取る(S字もしくは閂)、と理解していますが、諸説では巻天秤のように取るとかいう話も聞き、正直よくわからん技です。

②切返投

切返小手からさらに脇の下を潜るように入り投げる技。手を緩めないと相手の肘・手首が壊れる。最近では相手の手を開かせる事で送小手のように相手の肩を送り壊さない掛け方を理解したのでだいぶマシになりました。下の子にやらせるのはまだ怖いですが。


③内押受と内受

技で言えば内押受突と内受蹴みたいな感じになるんですが、これは攻者が振突か直突か違うのでわかりやすいですけど、そもそもに内受と内押受とは何が違うのか。教範ではそもそも内押受突などなく、外押受突とセットで「押受突」となっていたはずです。なので外押受で言われるエッセンスを取り込めばいいんでしょうが、内受自体の形と違いがよくわからないです。内受はいなすような内受とか、弾き飛ばすような内受とか「内受」の枠の中に色々なレパートリーがあり、実は弾き飛ばす感じの内受けは内押し受けなのではないかという疑問すら湧いてきます。


④諸手送小手と諸手送小手投

過去に武専で先生に質問した所「相手が飛んだら諸手送小手投だ」と言われましたがまだ信用できてません笑

相手の受身の取り方で技が変わるというのは、個別性の説明としては甚だ疑問です。同様に引天秤と天秤投の違いもわからんと言えばわからんです。


⑤下受突

旧科目表では三段技でした。理由は、、、謎です。中段を捌くため、体の回転が大きくなり突きにつなげにくくなるからでしょうか??「下受けして突く(笑)」以外の教え方を聞いたことがありません。下受蹴の方が100倍難しく感じます。

他にもたくさんあるはずですが、パッと思いつく所でこれぐらいです。

どなたか答えを知ってる方、教えていただけるとありがたいです(ソース等あれば最高です)


結手


ブログランキング参加してみました。もしよければクリックお願いします。

にほんブログ村 格闘技ブログ 少林寺拳法へ
にほんブログ村




画像は「紛らわしい」繋がりの画像です

少林寺拳法を学んでいると、その根底にある開祖の思いを避けては通れません。

思いが具体化したものが教えであり、それを学ぶ教材として教本や開祖語録などがあります。


「開祖の二枚舌」というひどいタイトルで書いてしまいましたが、開祖の言葉は時代背景や誰に向けて発せられたかに注意して受け取るべきもので、字面だけ追いかけて誤解してはいけないと留意しています。(もっとも自分の都合の良いような曲解が一番ダメなので、ある程度は額面通り受け取る必要もあります)矛盾の先に真実がある、という精神で、矛盾する部分についてはその背景による違いを理解したり、矛盾点をアウフヘーベンすることでその真の意図にたどり着ければと思うわけです。



○人十度、我百度

会報だったかな。どこかの道院長が開祖にこう言ったそうです。「先生!人十度、我百度と言いますが、うちの道院では基本は全て千回やっています!」百度の10倍ですから、褒めて欲しかったんでしょうか。開祖はこれに対し「くだらん」と返したようです。

これはなぜでしょうか?百回はいいけど百が至高でそれ以上はダメなんでしょうか?千回がちょうどダメな数字なんでしょうか。そうではないですよね。人十度、我百度は「普通よりも成長したいと思うのであれば、自分が人よりも努力する必要がある」という精神面と修行のコツを説いたものです。十や百に意味はなく、やらされる千にも意味はなく、むしろ千やれば良いと思うことには害があるということかと思います。修行において十分なんてものはないのですから。


○合掌礼

開祖は「オス!」という挨拶を非常に嫌われていました。社会に出て使えん挨拶をするなと。然るに我々の礼式である合掌礼はどうなんでしょうか。合掌礼はお辞儀のように頭を下げてへりくだるのでなく、お互い対等の立場であり、かつ認め合う存在と認識して行うものです。また、当然に構えでもあり正中線を守っています。それはそうなんですが、「日常生活で使えない挨拶をするな」という意味では、個人的にはオス!よりも知名度が低く日常生活で使いにくいものなのではないかと思います。

この点はわたしには解はありません。どなたか何か知っていたら、もしくは考えがあれば教えていただけると嬉しいです。


思いつくままに筆をとったら2点しか思い出せない。なんかもっとあったはずなのに。

思い出したら追記するとして、今日はこの辺で。




ブログランキング参加してみました。もしよければクリックお願いします。

にほんブログ村 格闘技ブログ 少林寺拳法へ
にほんブログ村

 

 

 

 

 

「少林寺拳法は乱取りをしない」なんて事がまことしやかに囁かれてはおりますが、そんなことはございません。やってる所はやってます(“やってる所は”という時点でアレなんですが)。

使ってたグローブが少しボロくなり買い換えるとともに、講習会参加に向け公式のヘッドガードを購入しました(黒いのが公式です)。


複数揃うと良し悪しや特徴について気になってくるもので、今回はそういうところを語りたいと思います。


公式のフェイスガードはなかなか良い。

およそ2万円と高いだけあって使い勝手はなかなかです。空手のスーパーセーフ(左)に比べて、正面の穴がないので素手で使うことも可能です。スーパーセーフでは空気穴のせいで素手で使うと拳の皮が大根おろしのようになります。もちろん空気穴がない分曇りますが。また、頭部そのものならいざ知らず、シールド部分を直接素手で叩くことの練習効果も正直謎です。あれ?空気穴あった方が良くないか??まぁ気にしない。



拳サポですが、少林寺拳法の公式拳サポはこちらです。


「拳サポ」と「グローブ」を比べたら当然なんですが、とてもちゃちい。フェルト生地が拳を覆ってるだけのものです。

フェルト生地に切れ込みがあることによって拳を握る際のストレスを軽減しています。

ただ、この切れ込みは親指部分にはないので、拳を正しく握ろうとすると親指部分には結構ストレスがかかります。




よほど意識してないと平拳のような握りになり親指が人差し指の横に来ます。

親指が目に刺さって失明した事故があったやに聞きますが、もしこの拳サポをつけての事故であればなんか想定された事故のようにも思えてしまいます。。。


ちなみに新しく買った非公式拳サポ(オープンフィンガーグローブ)はこんな感じ。ネットで買ったんですが親指のガードが全くないのは誤算でした。。。

素材は皮でクッションもそこそこあります。

ひとえにグローブ・拳サポといえど、このグローブならクッションが一定効いてるのでフェイスガードなしの当て止めでの乱取りが可能ですが、拳サポでは拳を守るためだけのものであり殴られた側がダメージを軽減できる類のものではない為、フェイスガードなしでは危険です。



ではこの拳サポはダメなのかと言えばそんなことはありません。フェイスガードとの組み合わせにおいては拳サポを着用すべきです。

タイトルを「防具の相性」とさせていただきましたが、フェイスガードなしに拳サポは最低です。攻撃する側が拳の痛みを気にせず強く殴れて、殴られる方はダメージ軽減がほとんどないので安全面で言えばまだベアナックルの方がいいんじゃないの?ってレベルです。

一方フェイスガードとグローブの相性もかなり悪い(よく組み合わされてますが)。

フェイスガードは顔面の殴打による外傷は防ぎますが、頭部の揺れによる脳へのダメージは軽減しません。むしろフェイスガードの分だけ頭部の重量が増加するため微妙に悪化さえします。

そこにグローブです。革製のグローブはフェイスガードのシールド部分との摩擦が強く、少しかすっただけでも頭部を持っていかれるため、頭部の揺れと言う意味ではグローブは武器といってもいいぐらいです。

その点フェルト生地の拳サポはシールドとの摩擦が弱く、よほど芯を捉えない限りは滑って有効打になりません。

多くの急所が頭部の中心に向かう加圧を正しい角度としている中にあっては、芯を捉えないと有効打にならないのは安全性の面から言っても攻撃技術の面から言っても適していると言えると思います。


まとめとしましては、防具には相性があり、組み合わせ次第では安全面を高めるどころか損なう可能性すらあると言うことを再度述べさせていただくとともに、正しい理解の元行う乱取り練習であればよほどのことがない限り大きな怪我はないので、皆さんも是非練習していただき、冒頭に述べた「“やってる所は”やっている」を「どこでもやってる」に言い直せる日が来ることを願っています。




ブログランキング参加してみました。もしよければクリックお願いします。

にほんブログ村 格闘技ブログ 少林寺拳法へ
にほんブログ村

 

「変手」って言葉、ひょっとしたらご存知ない人もいるんじゃないでしょうか。手刀や大拳頭・裏拳と並ぶ、手の攻防用器です。

 

名前を聞けば、あーあれねっていうものもあります。熊手なんてその代表格でしょう。

 

熊手のほかには虎手・鳥手・蟹手・巻鋏(まきばさみ)があり、計5種です。

 

また、手ではなく腕の攻防用器として蛇手が(僕の中で)同様な部類のものとしてあります。

 

名前を見ると「あ、蛇手は蛇突で使うやつだ!」とか思ってしまいがちですが、少林寺拳法はそんなに浅くない(←)

 

蛇突の時に使うのは鳥手でございます。

 

鳥手の説明は「五指の先を揃えて束ね、打ち込みに用いる」とあり、攻撃用のものであり、蛇手は「手を開いて手首を内側に曲げ、内掌から手首の先を用いる」となっており、蛇突に用いる場所ではありません。

 

そうです。蛇手は半月受の際に用いるあの受け手のことを指しています。

 

 

なお、虎手は相手をつかむ時等に用いる手で五指を離して少し曲げる形を言います。そうです。熊手返は、熊手で行うのではなく虎手で行うわけですね。

 

蟹手は首絞等で用いる手で親指と人差し指あるいは中指でつかむ時の手でございます。いきなりレベル上がりますが、羅漢締法の片輪締め・両輪締めなどで出てきます。

 

巻鋏は「拇指の第二関節を、人差し指の腹で巻き鋏むのである。」とあります。これはかなり密度高く相手を掴む際に有効なもので、技で言えば送指捕の相手の親指を掴む際のあの微妙な掴み手がまさにこれです。

 

 

少林寺拳法を習っていると自然に出てくるいろんな手の形は、実は変手という形で教範にしっかり書かれています。しかも蛇突は蛇手じゃないし、熊手返は熊手じゃないしと、なかなか奥が深いというか謎な設定になっています。

 

 

こういう点も押さえながら修行をすると楽しいですよね。

 

 


 

ブログランキング参加してみました。もしよければクリックお願いします。

にほんブログ村 格闘技ブログ 少林寺拳法へ
にほんブログ村

 

 

 

 

 

私たち金剛禅に限らずおよそ武芸一般は師弟関係の中で技術・思想を学びます。

金剛禅で言えば、釈尊の正しい教えを原点に据え、達磨大師の伝えた技法・教えを開祖である宗道臣のまとめた形で私たちは習うわけです。この大きな枠組みの中では道院長も白帯も皆等しく開祖の弟子、と私は思っています。

バランスが難しい話となりますが、開祖は道院長が「俺は偉いんだ」という態度を取ることへの警鐘を鳴らすと共に、「自分のようになれ」と道院長にカリスマ性のある人間になることを望んでいるような部分もありました。「鶏口となるも牛後となるなかれ」という言葉を引き合いに出されていた所にも、リーダーになれる人間を育てようという意志が伺えます。



さて、最近少林寺仲間と話をしていた中での話ですが、師匠が引退した為自分も少林寺拳法を辞めたという人がいました。曰く「少林寺拳法でなく、あの先生に習いたかったからやってたんだ。他で習う気は無い」とのこと。

ここまで極端では無いにしても「先生の技が素晴らしすぎて他の技は習う気になれない。正しい(先生の)技こそ後世に残すべきだ」という人も中にはいます。(むしろこっちの方が極端かも)


かく言う私も、最近転籍してきてくれた子に「おちょこで一杯さんに習うともう他では習えない」と嬉しいことを言ってもらえました。ええ、自慢です。


でも、これってどうなんでしょうか。


世界で一つの少林寺拳法。私以外からは習えないと思ってくれる気持ちは嬉しいものの、「俺がいなくなったら、もしくは引越し等で俺に習えなくなったら、少林寺拳法を辞めてしまうの?」そう言う思いがどうしても残る。

その後輩にはそう言った話をし、どこに行ってもやっていける強さと柔軟さと度量を身につけてほしいなと思った次第です。

世界で一つの少林寺拳法たらしめるためには、みんなの調和が必要不可欠です。調和の為には線引きはそぐいません。とはいえ線引きがなく「なんでもいい」では何を学んでいいのかわからないし、餌としての技法の魅力も損なってしまいかねない。

このバランスが、指導者として難しいところですね。でもこれが楽しい。

図は特段貼るものなかったので、手元にあったクイズです。答えがわかったらコメントにどうぞ笑

ブログランキング参加してみました。もしよければクリックお願いします。

にほんブログ村 格闘技ブログ 少林寺拳法へ
にほんブログ村

 

 

 

 

非常に残念な話なのですが、人が他人にものを教えるのは難しい。PCのようにデータをコピペできれば劣化せず、誤解も生じず完璧な伝達ができるのですが、そこは人間、絵にも文にもできないものもあれば、口伝では伝言ゲームや誤解が発生したり、個体差によりそもそもの規格が違うところがあったり、また、コピペと違い修得までに時間や経験を要します。

 

そういう「伝える」難しさから、本来の形や中身を伝えられず、形は似ているけども異質なものであったり、もっと悪くは形すらもわからないという状態になったものを失伝と呼びます。

 

少林寺拳法では、3本柱の一つに「教育システム」というものを掲げていますが、それでもなお失伝になりつつあるものがあるように思えます。

 

 ・独鈷伝

 ・如意伝
 ・活法(その他整法や圧法も詳細は失伝してるのでは。。。)

 

あとは話題には上らないという意味でもっと失伝してるんじゃないかと思うところとして

 

 ・外物(秘針・鉄丸・縄・薬物)

 ・心・体・智の「智」の部分

  (天方とか陰陽とか)

 ・攻撃容器としての顔

 (息を止めて顔を赤くし怒りを相手に伝え威嚇したり)

 ・攻撃容器としての口・舌・声

 (痰を吐きかけたり、罵詈雑言や奇声で虚を引き出したり)

 

これらとはまた別の軸で、通常の術科や基本所作の中でのポイントとして失われているものもあるかと思います。

 

〇さて、ではこの失伝、どうなんでしょうか。僕自身としては「正当な技」

 が万人に普遍的なものであり、時代変遷の中でも変わらぬもので

 あれば失伝は避けるべきかと思います。

 

 こんなことを言うとほかの先生方に怒られてしまうかもしれません

 が、もう失伝してるようなもので、今日的に見て残す必要の薄いもの

 であれば教範から削除するなり、教範に「少林寺拳法開創当初は

 技法として用いていたが、現在では金剛禅の技法として扱っていな

 い」など書いておいたほうがいいのではないかと考えています。

 

 現に上記の「外物」については教範に「現在では使用されていない

 から名称のみ掲げる」という記載がありますし。

 

出来もしないもの・する価値のないものをいつまでも大ぶろしきを広げて「少林寺拳法にはこんなものもある!」と言っていると、むしろ害の方が大きい気がしています。

 

真面目な拳士ほど教範に載っているものであれば調べようとしますし、それを正しく伝えられる先生がいるのであれば別ですが、どうももう伝言ゲームになっているようなものであれば練習すること自体危険です。活法とか。

 

そもそもに活法は打ち出し方によっては医師法違反になりかねないものであり、外物のうち薬物は「毒物および劇物取締法」違反になりうるため、そもそも時代背景に合致していませんし、上に述べた顔を赤くするというのも、(おそらくは)韓国等の民族的精神疾患と今日的に言われている火病のことなのではと思いますと、それを技術としてやろうとしていることに疑問を感じます。

 

西洋医学と異なる東洋医学に則って行っている武道ですから、西洋医学の発展を引き合いに出すのもおかしな話ですが、整体やカイロプラクティックの先生から見て少林寺拳法の整法にはかなりおおざっぱで怖い部分があるみたいなことを聞いたこともあります。黄帝内経等古文書をベースとしている東洋医学という領域に「最先端」という概念があるのか不明ですが、あるのであれば整法(活法含む)はアップデートされていくべきだと思いますし、ないのであればそれこそ少林寺拳法の普遍的な正しい整法をなんらか求めてそこから外れないようにしたいものです。

 

 

とりとめもない話になってしまいましたが、最近金剛禅のいろんな分野に手を出す中で、「そもそもこれを学ぶ価値は?」と思うことが多く、久々にブログを書いた次第です。

 

むずかしいですね。ご意見あればぜひお願いします。

 

 

 

 

 

ブログランキング参加してみました。もしよければクリックお願いします。

にほんブログ村 格闘技ブログ 少林寺拳法へ
にほんブログ村

 

 

 

 

あけましておめでとうございます。

 
今年も私にとって、またみなさまにとっても素晴らしい年になることを祈っております。ダーマの加護のあらんことを。
 
さて、先日ですが私、新年早々仲のいい女性と飲みに行ってました。いわゆるデートという奴ですね。憎い奴です。
 
で、デートですがこんなくだりがありました。結構いい雰囲気になり相手が「◯◯君(僕)は立候補してくれないの?」まじか。もう勝ちゲームじゃないか!この機を逃してはいけません。そこで僕はすかさずこう言いました「僕は少林寺拳法やってる人じゃないと付き合えないんですよね!どうですか?少林寺拳法初めてみませんか??」
その後「立候補」とかそういう話がまるでなかったかよように普通の会話が流れました。・・・あれ??
 
なんの刺激もない会話を続けながら『ちょっとちょっとダーマさん。ダーマの加護が足りてないんじゃないですか??こんなに信心帰依してるのに!!』と思う少年(僕)がおりましたとさ、という話(実話)ですが、では、どうなんでしょうか。このダーマの加護という捉え方。
 
 
ダーマの加護とはなんなんでしょうか。道訓を軽く読むのであれば、諸々の良いことをすればなんかいい具合にダーマが忖度をしてくれていい結果をもたらしてくれるように見えます。ダーマさんはとてもいい人ですね。でもこれは金剛禅の教えと見比べると違和感があります。金剛禅はおかげを説くものではなく、祟りやおまじないを否定していますから。
 
金剛禅は釈尊の教えとして「因縁」を説きます。原因に縁が加わり結果が得られる。道徳的意味合いも込めて「善因善果、悪因悪果」を思い、結果を求めるのであればそれだけの因、すなわち行動を必要とするわけです。その行動が正しいものであれば適切な結果がもたらされる。この因果関係こそがダーマの加護です。少なくとも私はそう理解しています。
 
日頃の行いの良い人が、痩せたいと願いご飯をたくさん食べたら、「日頃の行い」や「痩せたいと願う」は痩せることとの因果関係はなく、「たくさん食べた」という因に基づき、適切な因果関係をダーマの加護によって与えられた結果、やはり太るわけですね。
 
然るに、今回は「少林寺拳法」にそもそもの興味がない人に、突然勧誘のお話を持ちかけたことを原因として、愛想を尽かされるという結果を得たわけです。ダーマの加護により。
 
 
結婚はなかなかハードルが高そうです。
 
{B4A94B8F-578B-4472-8051-5D94E20ECFFC}

※画像はデートをイメージしたおしゃれ画像です。
 
 

ブログランキング参加してみました。もしよければクリックお願いします。

にほんブログ村 格闘技ブログ 少林寺拳法へ
にほんブログ村