金剛禅門徒の少林寺拳法修行記 -2ページ目

金剛禅門徒の少林寺拳法修行記

金剛禅門徒としての自覚を促すべく旧タイトル「練習日記(仮)」からタイトルを変更しました。

内容は変わりません。

よろしくお願いします。

こんばんは。年の瀬となりました。大晦日です。

 

今年は月に一度は更新する、という漠然とした目標の中で、完全にとは行かないまでもまぁそこそこの更新頻度が保てたかなと思っています。

日記ブログならいざ知らず、一応武道に対して思ったことを書くと言うスタンスでやっているものですから、毎日毎日新しいものが出てくるものでもありませんし。

 

 

とはいえ、当年度は武的側面では結構充実していたのではないかと思います。そもそもが体重が重すぎたのを20キロ落とすことができました。まだ重いけど。

練習も会社の働き方変革の後押しを受け、週に一度は道院にいけるペースをつかみましたし、土日についても定例的に大学生有志と一緒に練習することができました。卍生活が充実していたように思います。それを認められてか、時期は未定ですが次期道院長になるような話も先日の忘年会でいただきました。

 

今まで自分の練習(すらできていなかったですが)を主体としており、後進指導はするとしても定期的に道場にいけないわけですからどうしても単発的になってうわべの練習しか見れてませんでしたが、今年は毎週定例的に見れるので、基本となる練習方法から見直しを行うなどできました。

 

どうしても道院組織は「基本は軽めに、その後はずっと術科」になりやすい。それで「動けないけど術科はできる。まぁ年齢が年齢だから大学生のようには行かないよね」というのがよくあるパターン。でもこれは僕は違うと思っています。動けない人が道場の中でできてる技ってのはあくまで「練習のための技」の精度が高いだけで実際では絶対に使えない。なので、年齢関係なくできる基礎トレを多く加え、動きの基礎を向上する練習方法を取り入れました。皆さん実感できてるかどうかは不明ですが、少なくとも動きの質は変わってきているように思えます。下半身の安定感が違う。

 

 

また、最近危ういなと思うのが「知識のなさ」です。少林寺拳法の技を知らない、というレベルではなく、一般常識のレベル?が危うい。上腕骨の本数は片手で1本(上腕骨)。肘から手首までは2本(とう骨と尺骨)ということを3人に聞いたら3人とも知らない。びっくりしました。

20歳やそこらの大学生がわからないのは若干織り込み済みでしたが、結構な成人の方も知らない。「一般常識のレベル?」と上ではてなマークを付けたんですが、常識と思ってはいけないことがわかりました。漫画「バキ」のキャラクターも「格闘技は最終的には解剖学に行き着く」と言っていましたが、興味を持って取り組めば取り組むほど、自分が取り組んでいる対象である”人体”について調べたくなると思うので、問題は知識ではなく興味の方なのかもしれません。

 

2018年は2017年に達成したことに加え、知識面・興味面でも向上出来るよう目指せたら良いな、と思う次第です。

 

 

ブログ村でブログランキングに参加して、(母数は少ないものの)なぜだかちょこちょこ少林寺拳法の部で1位をいただきました。こんな文章だらけ、しかも稚拙な文章のブログを見てくれてる人が居るんだなぁと思うと怖い気持ちとうれしい気持ちが同居いたします。これからもご支援のほどよろしくお願いいたします。

 

では、皆様よいお年を。

 

写真は当時背骨の具合がどうなってるのか知りたくて初ボーナスはたいて買った脊柱模型です笑

 

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こんばんは。

 

少林寺拳法は弱いとはよく言われますが、一方で技法の完成度は高いとよく言ってもらえているように認識しています。

戦後間もない頃と比べて総合格闘技というものが盛んになった昨今では、寝技対策に甘いなどの時代の変化に遅れているのでは、という部分はあるようにも思いますが、でもやっぱり技の理論体系はすばらしいんではないかなと。

 

そんな中、前からうすうす思ってはいたんですがどうにも腑に落ちない部分があります。それが「鈎手守法のあとの当身」です。

 

これは、鈎手守法をした後、相手を虚実の虚にするために行うもので、目打ちや手刀を行うことで相手に隙を生じさせ、その瞬間に技をかけるという理屈の上にあるものです。護身の技としては、体格・体力の優れた相手に対して劣ったものが身を守るために必要なものである、とそこは理解しています。

 

ですが、技をどんどん研究していくと、鈎手の意味合いも単純に「相手に引っ張られないように守る」というものだけではなく、相手を崩し、次の龍王拳・龍華拳へと連携する必要が生じてきます。連携のためには鈎手で止まらずスムーズに次へとつなげなくてはならない。そのスムーズな連携が当身によって切れてしまうのではないかと思うのです。達人と呼ばれる先生方の動画を見ても、当身を入れている人は少ないように見受けられます。

 

 

それに、どうも少林寺拳法では「当身」に過度な期待をしているようにも感じています。都合のいい結果が生じることを疑っていないと言うか、当身を相手はかわさない、当身を入れても相手は手を離さない(が、手は緩まる)、普通殴られるとむしろ力むはずなんですがなぜか当身を入れると虚になる、目打ちによって相手は後ろに仰け反る、等々。ほんとにそんなことできんのか?できるような練習してるのか?そのような当身を入れるには当身の5要素のうち角度・虚実が通常の攻撃以上に重要になるはずですが、そのようなことに配慮している光景をあまり見たことがありません(僕もですけど)。

 

結論はまだ得られてませんが、僕の中では龍王につなげる分にはまだしも、龍華につなげるのであれば当身はちょっとどうかなと思うわけです。どうなんですかね。いろんな人の意見を聞きたい所です。

 

 

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金剛禅の修行法にも、『托鉢』というものがあります。

 
位置づけとしては、外修の一部として、体を鍛える易筋行と並列の位置づけです。
 
 
托鉢とは、たまに駅前で僧侶が器を持って立っており、一般の人から金品の施しを受けるというもので、一般人からは所謂募金のようなイメージが最も近いのかと思います。
 
ですがこの托鉢、なんの為にやっているのでしょうか。ただ貰うだけなら托鉢“行”として修行の位置付けにはなり得ないのではないでしょうか。
 
 
今回はまず通常の仏教における托鉢の意味・目的を押さえ、その上で金剛禅の托鉢について調べたこと・教えていただいたなどをつらつら書いていきます。
 
 
◯通常の仏教における托鉢
 
これは、私が見聞きした中では、元の意味と今の意味といいますか、諸説あるといいますか、一つにバシッと決まるものはありませんでした。
 
①修行僧は修行に専念する必要がある為、農作とかは出来ず(禁止され?)食べ物は施しで賄うという教え(ルール)があった為、行なっていた。
 
②施しを受ける際や何もいただけなかった際に、乞食のようにへり下るのでなく、修行僧としての毅然とした態度を養う、という目的から行なっていた。
 
③施しを受ける為でなく、相手に「施しを与える場」を作ってあげることで、相手が救済される為に行なっていた
 
 これはやや難解ですね。貧乏な人は与えることが無いから貧乏なんだ。お金でなくて何か些細なものでも与える側に立つことでいい流れ?が起きるとかなんとか。独特の世界観だと思いました。
 
④施された金銭の大小によって感謝の気持ちを変えず、「施しをしてくれた気持ち・行為」に対して感謝をする為の修行
 
などなど、色々な意図・目的があったようです。元来①が主説だったようですが、今は③が優勢と言った雰囲気を感じます(独断と偏見)
 
 
個人的には師匠から聞いた④の説でずっと理解してましたが、他にもあったことに驚きを覚えました。
 
翻って総括すると、生活のためという実利の部分は置いておいて、修行という意味においては「施しを受けること自体に感謝し、仮になくとも心を乱さず、人にも施しの場を提供する」という『与え合う場と心の醸成』と言った所かなと思います。
 
◯金剛禅の托鉢
 
金剛禅も昔は街中に出て托鉢を行なっていました(写真にあります)しかし、今ではさすがにそんなことしている道院は見たことありません(開祖デーの募金は別として)。
 
一足飛びに結論めいた話になりますが、開祖語録によりますと、開祖は「金剛禅の托鉢は、与えて貰うんでなく与える托鉢だ」とおっしゃっております。
 
 
これにはなるほどなと思いました。自己確立のためには①の目的は馴染みませんし、かと言って托鉢自体を放棄してしまうと自他共楽の教えの中では機会損失と言いますか勿体無い。与え合うと言うのを自らが与える側になることで実現できると言うのは一見普通のことのようで「托鉢」の先入観がある中では目から鱗でした。開祖語録にもある「すぐれた人間にまず自らをおこうではないか、そして、周辺にもいい影響を与えようではないか、こういう教えなのだ。」という言葉とも合致する考えです。
 
 
少林寺拳法あるあるで「道院に行っても教えるだけで自分の練習時間が取れない」という言葉をよく聞きます。しかし、与えられる側であることに喜びを感じ、恩着せがましくない態度で教えることこそが、金剛禅・少林寺拳法における托鉢になっていたんだなぁ、というのが最近の気づきです。
 
ちなみに托鉢行が内修ではなく外修なのは地味に驚きです。何故なんだろう。わかる人いたら教えて欲しいな。
 
では、皆さん。どんどん托鉢していきましょう!
 
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少林寺拳法は仏教の流れをくんでおり、体を鍛える外修『易筋行』がメインではあるものの、内修の柱である鎮魂行を代表とした座禅的なものもございます。


着座・安座というのが少林寺拳法としての座り方でして、着座はいわゆる正座、安座はいわゆる胡座となります。

安座についてもう少し詳しく言えば、禅宗仏教としては結跏趺坐という座り方が正当であると記憶しており、これは腕で言うところの『腕組み』のように左右の足を絡めるように座るもので、安定感は非常にあるものの、即時の動作が行いにくいという武道的側面からのデメリットがございます。

少林寺拳法は武的側面を当然に有している為、結跏趺坐のデメリットは大きく、その為『半跏趺坐』を持って座法としています。半跏趺坐とは、右足の上に左足を乗せる形での胡座、と思っていただければイメージとして問題ないかと思います。


動きやすさを追求するということは、すなわち座った状態から立つ動作であるとか、立った状態から座る動作についても、武として気を配る必要があるということです。

すなわち、隙のないように、両手を塞がないようにそれらの動作を行う必要がある。


礼法としてのみならず、そのような視点で行なっているかが重要なわけです。


そこに合わせて、最近気をつけているのは着座・安座中の腰の形、上体の傾きです。

特に安座では、胸を張り軸を立てると下手をすると後ろに転がる。そうならないためには背筋をはじめとした体幹の力が必要になる。

私はやや猫背気味の為、今まで自分的にはまっすぐにしてるつもりでもやはり前傾しているということが多々ありました。最近はこれを注意し家でも着座・安座を行い、やや筋トレじみた気持ちで背筋のハリを感じています。


これを鍛えれば構えの安定性も増し、動作中のブレも少なくなるのでは、なんてことを期待してはいるのですが、なかなかやらなくてはいけないことは尽きないものです。


※写真は借り物です。
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少林寺拳法の構え。

 

オーソドックスな構えはやはり中段構えと一字構えかと思いますが、これらの足位はどちらも「レの字立ち」です。

 

レの字立ちをする場合、当然、開足中段構えに比べて相手に対して角度が出ますので、自然と半身になる。

 

この半身について、最近思うところがあり、見直しています。

 

 

なぜ半身になるのかというと、前後左右への動きやすさから足をレの字立ちにしたことによる当然の帰結だということもありますが、私が白帯のときに習った理由としては「相手に対する面が狭くなるので、相手の攻撃が正対している場合に比べて当たりにくくなる。」という守りの理由からでした。

 

しかし反撃のことを考えると、半身ではどうしても後ろの半身が死んでしまい、受け即攻撃が行いにくい。これ自体は以前から気づいてはいたんですけども、受けだけの時は通常通り半身に、相手の攻撃に慣れ、そろそろ反撃をしようかなといった時には意識的に正対っぽくしたり、半身のままでもできる順の蹴り返しで反撃することでカバーしていましたが、どうにも技の広がりに乏しく、イマイチな感じがしてきた今日この頃です。

 

古い資料を見ても、今の演武で見る構えなどに比べても正対っぽいですし、新井会長の構えも足はレの字であるものの、上半身はほぼ正対といった感じです。

 

そういうわけで、自分の構えも正対にしてみたらどうだろうと思い、今さまざまな動きの中で不都合や利点がどんなものがあるかを洗い出しているところなわけです。

 

入門時に習う基本のうち、最も初期に習う「構え」ほど、やってみると奥が深く、また他のすべての動きに影響を与えるものですので、しっかりしたものを身に付けたいですし、また、変えるにしてもきっちりと理解したうえで変えていきたいと思います。

 

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先日軸を立てる・立てないというところで書いたことの補足といいましょうか続きと言いましょうか、軸の観点とセットで私が思っていることを記載させてもらいます。

 

よく新井前会長がご自信の本部職員として勤め始めた際のエピソードとして、三崎先生に開足中段構えからの振子突を見てもらった際に「つま先を前に向けろ」とご指示されたというお話をされています。

 

どこの道場でも振子突の際には「つま先・膝は正面に向け、横を向かないように」という指導をしているかと思います。

 

しかしこの言葉がどこまでの実行性を持っているのか、あるいは「正面」の指す意味合いは何なのかについては、やや疑問の残るところです。

 

 

実行性については、正直色んな方の突きを見ていて、ほんとに正面を向けている人は少ないかなと言う実感があります。また、正面の意味として「大きく横に開くのはよくない。が、本当に正面を向けると窮屈になるので、ここでいう「正面を向けろ」はある程度正面であればよく、本当に真正面を意味しているものではない」という意味合いで言っている場合もあるかと思います。

 

現状の多くの道院では、こんな感じではないでしょうか。僕自身もそうですし。

 

しかし、当時の新井前会長が、そんな指導を受けるほどつま先が横を向いてたのかと考えると、そんなまさかという気持ちになります。

 

 

ここで冒頭に述べた「軸を立てる・立てない」の話になりますが、軸を立てない場合(倒す場合)、倒した軸をすぐ元通りに戻す必要があります。倒したままではそれこそ体制崩れますし連攻に難がある。

 

軸を倒したときに、つま先が前を向いていて、窮屈な状態であればそれが軸を戻す力になるのではないでしょうか。

 

突き自体の威力のみを考えたら、多少は外を向いたほうが効果的と思いますが、復位までを考えた場合は、ひょっとしたら完全につま先が正面を向いていたほうがいいのかもしれません。

 

以前の記事では「安定した丹田により自動的に頭は戻ってくる」というように書きましたが、その戻ってくる力の補助として軸足の在り方が効いてくるのかなと。

 

 

新井先生の件も、もしかしたらそういうことだったのではないかなぁと思うわけです。

 

(添付の写真ではややつま先が外向いてるような気もしますけど)

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こんばんは。最近また更新をサボっています。

 
少林寺拳法の教えに『拳の三訓』というものがあります。これは修行のあり方を説いたもので、曰く学習の段階には「守・破・離」という三段階があるというものです。
 
守破離という言葉自体は少林寺拳法独自のものではなく、主に武芸で使用される言葉のようです。
 
守とはなんぞや、破とはなんぞやとここでつらつら述べてもいいんですが、最近読んだ漫画にとても簡便に説明があったので、そちらを記載したく思います。
 
《異世界居酒屋「のぶ」》
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この漫画は、中世ヨーロッパとどこでもドア的に入口が繋がってしまった純日本風居酒屋「のぶ」を舞台にしたグルメ漫画です。
 
グルメ漫画にありがちな、あらゆる問題が美味しいご飯を食べることによって解決していく警察不要な世界観の中で、異世界とのコントラストの中で和食の素晴らしさを訴求していく、そんな漫画でございます。
 
 
なんの話かよく分からなくなりましたが、漫画読んでたら守破離が出てきたので筆をとった次第でした。おやすみなさい。
 

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こんばんは。

 

以前ご紹介した資格別特注帯ですが、あれだけダメ出しをしておいて、しっかりと購入いたしました。
 
まだ普段の練習でつけるような勇気はないですが、とりあえずコレクションの一環といったところでしょうか。
 
先日の武専では1人だけこの帯でいらしてましたね。この帯つけてる人がいたらいじり倒してやろうと思ってたんですが、ちょっと偉すぎる人だったので(しかも話したことない)辞めておきました笑
 
この帯は世界大会で出場者の皆様がつけて、その後は下火になる、そんな未来が見え隠れしてますがはてさて。。。
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少林寺拳法の3本柱として「教え」「技法」「教育システム」が挙げられます。


え?「剛法」「柔法」「整法」では?と思う方もいるとは思いますがこれは三鼎三法二十五系の三法ですし、じゃあ三鼎はというと「智」「心」「体」ですし、また「健康増進」「護身練胆」「精神修養」は3徳で、その他にも拳の三訓とか拳の三要とかいろいろあります。紛らわしいですね。3本柱と言いましたが正式な固有名詞ではないようで、ただよくこのように呼称されています。

 

この中で「教え」は教範にたくさん書いてありますし「技法」ももちろんよくわかる。では「教育システム」とは?と、あるところで質問を受けたので、その回答を踏まえてブログのネタにさせていただきました。

 

 

少林寺拳法本部の出している「少林寺拳法 -愛の価値、力の理想。」では、この3本柱を第1編~第3編に割り振り、教育システムについては第2編で説明しています。

要約すると、以下の流れおよび少林寺拳法の6つの特徴が記載されており、これをもって教育システムと説明がありました。

↓修行の流れ

 ①「修行の目的を確立」

 ②「鎮魂行による自己の見つめなおし」

 ③「体系化された技法による段階的な修練」

 ④「組手主体による他者との協調」

 ⑤「高齢者でもできるが故の生涯修行」

 

本部の公式見解なので、否定するものではないのですが、せっかく自分のブログも持っているので、補足と言うか自分の考えを述べさせていただきます。


 

私の意見としては、『法形』と『科目表』の存在が教育システムの具体的な表現かと思っています(上記の③に含まれるのですが)

『法形』は様々な解釈・側面があると思いますが、「単なる受けや反撃をどのように運用すべきかを学べるケーススタディ」という側面があることは事実かと思います。仮にカンの良い人なら内受と逆突を学べば自然と内受突はできますが、そこで「内受と逆突が出来るんだから、自分で工夫しろ」と突き放すのではなく「内受突」という法形を提示することで誰もが無理なく修得できるというものです。

『科目表』は、そのような法形や、それ以前の突き蹴り・防技、さらには教えについて、入門後第何週に何を学ぶかをあらかじめ定めているものです。これによって「どのような段階を踏んで学んでいくべきか、上達が滞っている場合どこで躓いてしまっているのか」を明らかに出来るものです。

概念的に言えば(本部も言っていますし)冒頭に述べたものが少林寺拳法の『教育システム』ですが、私としてはその本質を支えているのは『法形』と『科目表』に代表される「技術体系習得のためのステップの明確化」です。

 

 

と考えると、空手では基本的な受けや突き方を教えてもらいその後は「コンビネーション」という中で個々人の練習に任せられるものも、少林寺拳法ではある意味過保護的に600もの技に分解し要諦をわかりやすく教えてもらいます。残念なのはかなり多くの人が「(特に)剛法は練習してて飽きる」「相手がお決まりの攻撃してくるなんて、やる意味あるの?」という思いを持っていそうなところですね。

 

また、この考えに立った場合「三段技はニ段になったら練習できる」とか「大会とか出の使用可能技」という話は少しよくわからないですね。僕は自分が現在の武階を越えて習熟できているなら、どんどん先の技をやってしまって良いのではないかと考えているタイプですが。

 

久々に科目表を一から見直して、技の研究したいな。

 

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こんばんわ。やや雑談チックなお話ですがタイトルについて最近少々感じたことを。

 

「段が上がれば上がるほど、年数が経てば経つほど、人の技を学べなくなる」なんてことを最近耳にしました。個人的にはそんなことないという気持ち半分確かにそうだなと思う気持ち半分と言ったところです。

 

もう少し具体的に言うんであれば、いつでも新しいことは学べるんだから「学べない」は単なる驕りや怠慢だろうという反対の気持ちと、有事の際に自分が使用する技は、今までの積み重ねの中で様々な角度から理論構築してきた自分の技なので、突然新しいことを言われても、そしてそれがある側面ですばらしいものだとしても、中々今までのものからそっくりすげ替えて、新しい技に切り替えるのは難しいだろうという賛成の気持ちと両方あります。まぁ「切り替える」という激しい方法ではなく、良いところを取り入れていくっていうぐらいが一番なんだとは思いますが。

 

では、さりとて自分の今学ぶべき環境の中で、どのような技が自分の周りにあるのだろうか。道院では基本先生の技を模倣するようにしていますし、後輩指導についても先生の技を紹介します。武専に関しても、武専教員のやり方を学ぶのがメインかと思うので、教わった方法論で技の練習をします。出稽古に行った際に、そこの教え方以外のことを個人プレーでやるのも煙たがられるので、そこの方法に合わせるようにしてます。

 

すると実は自分なりの掛け方を実際にやることがほんとに少ないのではないかなぁと最近思いました。

 

学生時代であれば、監督の方法というものがありつつも自主練三昧でしたし、自分の独自の方法ってものもそこまで出来てなかったので不便に思うことは無かったんですが、社会人になってから実は自分の掛け方をやってる時間より、(自分の掛け方は他にあると認識しながらも)他の掛け方をやっている時間のほうが長いんじゃないかなぁと思った次第です。

 

この状態があまりに続いてしまうと、自分の認識している「自分の掛け方」がいつの間にか出来なくなっている可能性があるという超絶デメリットがあるので、個人的には結構な危惧を抱いていますが、とはいえ悪い話ばかりではなく、とりあえず色んな場でそれこそ初生の赤子の心構えで新しいことを学ぶことは単純に学ぶ上で効率が良いですし、ある程度技の特徴を捉えたら自分の技に微妙に取り入れることも可能になります。何より「何を教わろうとも自分の掛け方しかしない!」というスタンスでは人間関係に角が立ちます笑

 

人に教えてもらうときには、教えてもらう態度をしっかりとり、その上で自分の技をしっかりと練るような時間を別途取らないと、いつまで経っても他の人の技の劣化コピーに留まるか、人の意見を聴かない自分本位な技の使い手になってしまう気がするので、とりあえず自主練の時間を増やさなければと思う今日この頃。

 

まぁ自分の技だけやってれば本当にうまくなるのかと言うと、どうしても技が一面的に偏りがちになるので、いろんな人のいろんな技を取り入れながら発展させるのが遠いようで一番の近道かもしれませんしね。

 

 

しっかりと学んでいきたいものです。

 

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