金剛禅で言えば、釈尊の正しい教えを原点に据え、達磨大師の伝えた技法・教えを開祖である宗道臣のまとめた形で私たちは習うわけです。この大きな枠組みの中では道院長も白帯も皆等しく開祖の弟子、と私は思っています。
バランスが難しい話となりますが、開祖は道院長が「俺は偉いんだ」という態度を取ることへの警鐘を鳴らすと共に、「自分のようになれ」と道院長にカリスマ性のある人間になることを望んでいるような部分もありました。「鶏口となるも牛後となるなかれ」という言葉を引き合いに出されていた所にも、リーダーになれる人間を育てようという意志が伺えます。
さて、最近少林寺仲間と話をしていた中での話ですが、師匠が引退した為自分も少林寺拳法を辞めたという人がいました。曰く「少林寺拳法でなく、あの先生に習いたかったからやってたんだ。他で習う気は無い」とのこと。
ここまで極端では無いにしても「先生の技が素晴らしすぎて他の技は習う気になれない。正しい(先生の)技こそ後世に残すべきだ」という人も中にはいます。(むしろこっちの方が極端かも)
かく言う私も、最近転籍してきてくれた子に「おちょこで一杯さんに習うともう他では習えない」と嬉しいことを言ってもらえました。ええ、自慢です。
でも、これってどうなんでしょうか。
世界で一つの少林寺拳法。私以外からは習えないと思ってくれる気持ちは嬉しいものの、「俺がいなくなったら、もしくは引越し等で俺に習えなくなったら、少林寺拳法を辞めてしまうの?」そう言う思いがどうしても残る。
その後輩にはそう言った話をし、どこに行ってもやっていける強さと柔軟さと度量を身につけてほしいなと思った次第です。
世界で一つの少林寺拳法たらしめるためには、みんなの調和が必要不可欠です。調和の為には線引きはそぐいません。とはいえ線引きがなく「なんでもいい」では何を学んでいいのかわからないし、餌としての技法の魅力も損なってしまいかねない。
