驚愕】こんな日本人が現存するのか!?石原慎太郎、異彩の“太陽”戦後日本の姿そのものの人生 | truth-of-japanのブログ

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異彩の太陽と言われ、作家として、政治家として

立ち止まることを知らず

昭和から現代までそのカリスマ性と

強いリーダーシップで一時代を築いた

石原慎太郎氏が亡くなったのは2022年2月1日

享年89

時には羽仁衣着せぬ発言で物議を醸し、作家・政治家として

国をもリードした行動や言動は際立っていました 

石原慎太郎は何を目指し、

何を遺したのでしょうか 

「大切な価値を創造することなく、世相の波に乗り続けた

石原氏の姿は、「戦後日本の姿」そのものだったのかもしれない

私たちの立っている場所を見つめ直すためにも、

石原氏の文学と

政治を検証する必要がある」と中島岳志東京工業大教授は述べています 

政治不信、日本人の民度低下

日本社会の混迷が叫ばれる今こそ石原慎太郎の思想と生涯を振り返る必要があるでしょう 石原慎太郎は父、石原潔、母光子のもと、昭和7年兵庫県神戸市で誕生

公認会計士になるために一橋大学に

入学したものの、会計士には向かないことを自覚した

慎太郎は休刊していた一橋大学の同人誌

『一橋文藝』の復刊に力を注ぎます

慎太郎はこの同人誌に処女作である「灰色の教室」を発表し、文芸評論家の浅見淵氏に激賞されて自信をつけたのをきっかけに、第2作目の『太陽の季節』を

執筆することになるのです

そして、1956年、『太陽の季節』で芥川賞を受賞若者たちの性と暴力を描き、既存の価値観を覆すかのようなこの作品は「太陽族」という流行語を生み出し、慎太郎は瞬く間に文壇の人気者となったのです

彼は昭和の大スター裕次郎の2歳違いの兄であり、その一族は「石原ファミリー」と呼ばれました

その後、価値を創造し、現実と実存主義を実現しようとする慎太郎の探究心は、彼を政治の世界へと導いたのです 

作家、石原慎太郎が政界に打って出たのは、昭和43年 参議院選挙の全国区に自民党から立候補して300万を超える票を獲得し、初当選

この得票数は現在も破られていません 政治の世界に

舞台を移しても、血気盛んな石原流は健在でした

昭和48年に自主憲法の制定などを唱え、

故中川一郎元農林水産大臣や故渡辺美智雄元外務大臣らと

派閥横断的な政策集団「青嵐会」を結成

その時のエピソードを当時、中川氏の秘書で

参議院議員、鈴木宗男氏は振り返ります

「青嵐会を作ったとき、血判状が1つの話題になりましたね。

血判状をやれと言ったのが、石原先生なんです。何かコトを起こす歴史を作るというならば決意と覚悟が必要だと石原先生の強い思いで筋を通すというか、芯があったなというのはつくづく思いましたね」

その後、政治家として環境庁長官、運輸大臣を歴任

1989年、内閣総理大臣を目指して

自民党総裁選に出馬しましたが、海部俊樹氏に敗れ落選

国の舵取りには失敗しました

そして平成7年には国会議員勤続25年の表彰を受けた

その日に「政治が国民から軽蔑されるほど無力になったのは、

政治家の責任だ」として議員辞職を表明

石原氏の言動は政界でも常に注目を集めました

自民党の政務調査会長などを務めた亀井静香氏は、石原氏が

自民党総裁選挙に立候補した時に推薦人になって支えました

自ら石原氏と「兄弟」だという亀井氏は

「太陽の季節そのものよ、きらきらキラキラ燃えまくっていた

彼は現代における『知の巨人』なんだよ

俺も非力だから、彼を総理に押し上げる力が俺になかったから

申し訳ないと思ってるよ」と 石原氏を表現します

その後、作家、石原慎太郎は議員

辞職後、弟裕次郎の生涯を

死の瞬間まで描いた『弟』を発表し、ベストセラーとなります

そして政治の表舞台から姿を消して4年

「新しい発想と強いリーダーシップで、

東京から日本を変える、世界を変えていく」

そう宣言して政治家・石原慎太郎が次のステージとして選んだのは東京都政でした

99年に東京都知事になるとさまざまなパフォーマンスを繰り返し注目を集めました 

平成11年の都知事選挙では、石原軍団も参加する選挙戦を展開して圧勝、首都

東京のリーダーとなった石原氏は時代を先取りした

独自の政策を打ち出し、いろいろな意味で波紋を広げました

その代表例が有害物質を出すディーゼル車の規制です

 トラック業界などが反発する中、石原知事は記者会見で煤の入ったペットボトルを振り

「これを総理大臣も生まれたての赤ん坊もみんな吸っている」

と独特の表現で訴えたのです 

石原氏が都知事時代に副知事を務めた作家の猪瀬直樹氏は、東京であり、

石原氏だからこそ実現できた政策だと強調します

「ディーゼル車の排気ガス規制は、自動車メーカーが反対しているですから、政府はできないんですね 法律で改正できないから、東京都の条例で

やっちゃおうということでやったんです 

東京都の条例でディーゼル車を

規制をすると、全国のトラックが東京都を通過しますので、

国の法律を変えなくてもディーゼル車の排気ガスの総量が減る

東京から国を変えることができたということですね」

そして、「東京から国を変える」というメッセージの通り、

次々と政策を実行に移していきます 都心の観光名所を駆け抜ける

コースで国内最大規模の市民マラソンとなる

「東京マラソン」を実現

また、金融機関による貸し渋りなどに苦しむ

中小企業に融資するため、都が1000億円を出資して新銀行東京を開業しました 「東京から日本を変える」

「国がやらないから東京がやるんだ」と言ってきた石原氏は

2期目を目指す都知事選挙に際して目玉がないと

焦ったといいます

そんな時、飛びついたのが新しい銀行の創設だったといわれています

しかし、事業計画は甘く、開業後、赤字はまたたく間に膨れ上がりました

結局、無担保融資の焦げ付きは税金によって埋められることになり、新銀行東京は他行に統合されました

このことを藤生明氏は、「『石原銀行』は政治的野心と『作家の商法』が招いた大人災だった」と断言しました

そして、新銀行東京の失敗プロセスを追及し、その原因を自らの独創のアピールと国家を動かす優秀な政治家であると誇示しようとした石原氏の姿勢にあると言及しています

その一方で、羽田空港の国際化や東京オリンピックの誘致にも取り組みましたが、

石原氏の対象は外交分野にも及んだのです 中国が沖縄尖閣諸島の領有権の主張を強めたことから、平成24年には個人所有だった尖閣諸島を都として購入する考えを表明購入資金として都にはおよそ14億円の寄付金が集まったといいます

結局、島は国有化されることになりましたが、国の外交に一石を投じました

当時の総理大臣で石原氏とも意見を交わした野田佳彦議員は石原氏を日本の将来を考えていた国士と評した上で決着後の対応が印象に残っているといいます 

「2012年の8月19日の夜、総理公邸にお招きをして1時間半尖閣をどうするか、真剣に侃々諤々の激論を戦わせましたしっかりと実効支配して、中国とどうやって向き合っていくかという基本線は一致なんですが、少し方法論が違いましたので、都が所有するよりも国が所有すべきだという決意を改めて固めたという日でした 国が買った後酷評したりとか、足を引っ張ったりということはなく、物事の決着がついたらそれに対応するという

姿勢を持っている方だったと思います」 

民主党政権末期の2012年10月、石原氏は

「明治以来続いている官僚制を、もう一回シャッフルしたい大阪にその機運があるので、大阪の仲間と力を合わせてやっていきたい」と述べ、4期目の任期途中で都知事を辞職

翌月、再び国政に挑むため、

元経済産業大臣の平沼赳夫氏らとともに

「太陽の党」を結成し、その4日後には

当時大阪市長だった橋下徹氏が率いる

「日本維新の会」との合流を決めました 

「東の石原、西の橋下」の2枚看板で1カ月後に迫った衆議院選挙で

一気に勢力を拡大しようという狙いだったのです 

元日本維新の会代表の松井一郎

氏は、当時幹事長として合流を実現させました 

松井氏は石原氏には

「東京と大阪のトップが一つになることで、国を動かしていく」

という発想があったと振り返ります

しかし、江田憲司氏らが結成した「結いの党」

との合流をめぐり、党内は対立します

双方折り合わないままおよそ1年8カ月で、石原グループと

橋下グループに分党する結果になったのです 松井氏は 

「石原氏と橋下氏が

名古屋で会談して別れることを決めるわけだけど、石原氏は

『橋下君悪いけど、君が新しいグループを入れるなら僕は出ていかざるを得ないんだよ』

ということで、非常に短時間で終わった会談だった」と

振り返ります 石原氏は自らに近いメンバーと

「次世代の党」を結成しましたが、およそ4カ月後に行われた

衆院選で議席を失い、政界を引退しました

一方、橋下氏と松井氏は今の「日本維新の会」へとつながる

道を新たに歩むことになるのです

さらに松井氏は

「石原さんと別れた当時は何でわかってもらえないのかな

という思いがあったし、改革マインドを持った

維新の党でしっかりやっていこうと思ったんだけど、

やっぱり石原氏みたいな人が

重しとなっていていただいた方が

よかったのかなと、今になればね」

「表面的なことで人を評価しないというのは

非常に学ばせてもらったし、正論で

言うべき時は言うと、何より先人への敬意は非常に強かった

今、自分がいるのが先人のおかげなんだという

日本の伝統的なものの考え方の重要性は

教えていただいた」と語っています 

長年、都政の研究にもあたってきた

東京大学名誉教授の御厨貴氏は、

石原氏を孤高の人と表現した上で

物議を醸す発言の数々を作家の宿命であると指摘します

「彼はまずもって『作家』

「太陽の季節」で大ヒットを生み、彼の運命は

その時点で世の中に何か物申す人世の中に

何かあっと言わせる人というイメージがついてしまった

政治家・石原慎太郎に常に作家・石原慎太郎がいて、

普通の政治家と違うから言葉で何か言わなきゃいけない

という作家の宿命があって、自分がやったことを

言葉で説明しようとすると、政治家の言葉じゃなくて、

作家の言葉として出てきてしまう

それがまた物議を醸すのだけれど、その物議を醸すのが

彼としては面白いというところがあって、自分を悪く見せて、

それで世の中に問うというところがあった

感じがします」と語っています 

猪瀬氏は「根底にあるのは作家としての姿で

言葉で伝えるのが政治なんだという信条を持っていた 

表現力のある言葉を使う一方、単刀直入な物言いで

時に失言もあったが、人間味のある人だった」

と石原氏の人柄を振り返っています

このように、作家としてのカリスマ性は政治家・石原

慎太郎の推進力にもなり、批判の要因にもなりました 

石原氏は

平成26年の政界引退の際、

作家であり、政治家としての人生を振り返って

「今までのキャリアの中で『歴史の十字路』に

何度か自分の身をさらして立つことができたのは、

私にとっては政治家としても、また物書きとしても

非常にありがたい、嬉しい経験だった

死ぬまでは言いたいこと言って、やりたいことをやって、

人から憎まれて◯にたいと思います」と語っていました 石原氏が

自ら語った、政治家と作家という2つの顔

我々と同じ時代を生きた日本人として

絶対的に記憶に残る人物であったことは疑う

余地はないでしょう 家族によると、石原氏は

2018年前にすい臓がんを患い、

2021年10月には腹膜にがんが

転移、闘病生活を送る中でも1日1時間から2時間

亡くなる1週間前までは執筆活動を続けていたといいます 

長男・伸晃氏は

「2021年12月には短編小説を取りまとめまして、喜んで

『これが俺の遺作だな』と話しておりましたけれども、その後も執筆活動を先週までも続けておりました 都知事など政治家としての経験が長い父ではありますけれども、最後まで作家として仕事をやり遂げた」

次男・良純氏は

「僕は石原慎太郎という人は作家だと思っておりました最後、体が動かなくなっても短い時間1時間、2時間ですけど、その時間にワープロに向かって文字を打ち続けていた姿は、やっぱりまさしく文学者なんだなと まあその分、父親としてはかなりユニークな人だったと思います」 冷泉彰彦氏は、

ニューズウィーク日本版に寄稿した「石原慎太郎氏が遺した3つの謎」の中で、

「超一流の業績がないにもかかわらず、残した印象は不思議に鮮烈だった」ことに石原氏の本質を見出しています

そして、この「ミステリアスな面を検証することは、昭和末期から平成の日本の歴史を探る上で

大切な作業になるのではないかと思う」と述べているのです 靖国神社で

90歳の戦争未亡人が詠んだ

「かくまでも、醜き国になりたれば、捧げし人の、ただに惜しまる」

こんな日本にするために主人は命を捧げたのか

という現代日本に絶望する詩に、強く共鳴した石原氏、松井氏が語った

日本の伝統的なものの考え方の重要性を終生大事にしていた石原慎太郎氏

幼少の頃、米軍のグラマンに狙い撃ちされ、

それを追いかけた零戦が背負っていた日章旗を見て

「右翼的な思想になった」と多くの人は語りますが、

石原氏が受けた衝撃はそんなに簡単なものではないはずです 

作家・司馬遼太郎氏が言うところの『時代の気分』を常にその背に背負い、

現代の日本人がとうの昔に失ってしまった 日本人らしさを濃厚に醸し出し、太陽のように輝き、ダイナミックに駆け抜けた人生でした 

作家として政治家としてこのような日本人が

今、現存するでしょうか 我々は、彼から学ぶことが

多すぎるのです 学ばなければ手遅れになるかもしれません