「あまり押し合うとショーが進行しません」リッチーブラックモアが「日本のファンは世界一」だと公言 | truth-of-japanのブログ

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1973年6月29日の大阪公演をもって
第2期ディープ・パープルは幕を閉じました。
この章の最後ギランは自ら「これで最後だ」と
ファンに告げ、感謝の言葉を述べたというエピソードは

あまりにも有名です。ディープ・パープルは新たに歌える
ベーシスト、グレン・ヒューズを迎え、”リードシンガーに
ポール・ロジャースを”と動き始めることになるのです。

ポールはこの申し出に心動かされて
"2週間ほど考えたそうですが、結果として
“多くの尊敬すべき人たちを"
裏切ることになるから”と断ったといいます。
"この動画では、前回に引き続き
リッチー・ブラックモアについて取り上げます。"



73年の後、しばらく日本から遠ざかっていた
"リッチーは自らのバンドを率い、
衝撃の来日を果たします。"
"ポールロジャースに加入を断られ、バンドは
「メロディーメイカー」に募集広告を出すことにしました。"


"ディープ・パープルのオフィスにはデモテープが
数多く寄せられ、オーディションも"
何回か行われましたが、やがて、デモテープを
イアンペイスが1本ずつ丹念に聴いていく中で、

"デイヴィッド・カヴァデールという青年が
歌っているテープに行き当たります。"
"オーディションは順調に進み、
ディープ・パープルの誰もがデイビットの声や"
"性格には満足し、
選ばれる可能性が高いことをほのめかして"
"デイビットを帰したのですが、
大問題となったのが彼の容姿でした。"
当時のデイビットは”太りすぎで眼鏡をかけ、似合わない
"髭を生やし、服装も並以下で流行遅れだった”
といいます。"
"特にリッチーは「このままでは入ることはできない。
イアン・ギランのルックスは"

"良かったから、後任のシンガーもルックスの
良い人間でなければいけない」と"
"主張します。リッチーとすれば求めていた
ブルージーなディープ・ボイスそのものだけに"

"”何とかしたい”という思いでいっぱいでした。
リッチーが先頭になってデイビッドの”ルックス"
向上作戦”が進められ、痩せるために
医師の診察によってアンフェタミンが投与されました。
"1973年9月12日、グロスターシャーの
クリアウェル・キャッスルで、"

"第3期ディープパープルとして最初のリハーサルが
行われ、辛抱強くダイエットを遂行している"

"デビッドは15日に正式採用となり、
23日にはプレス関係者を"

"クリアウェルキャッスルに集めて
第3期ディープパープルを"
正式に披露したのです。第3期の曲作りは、
リッチーとグレン、デイビットの3人で行われました。

"デイビットは「僕はリッチーの家に行って、
とても良い曲を一緒に書いた。"

その時、リッチーは彼の哲学について話してくれた。
"僕が何をするべきで、何をしてはいけないかをね」
と語ります。“Burn”に関して"

"リッチーは後のロニー・ジェイムス・ディオが
得意中の得意とする"
"中世の魔術的世界を歌詞にすることを要求し、
デイビットは苦心に苦心を重ねて"
"なんとか書き上げたのです。
「リッチーをハッピーにするために僕はファンタジーを2曲書いた。
"

“Burn"と"Stormbringer"だ。
成功した曲だけど、僕にはテーマが感じられなかった」と
デイビットはいいます。「バンドに入った時は
迷子みたいだったのに、半年もするとエゴの塊になっていた」とデイビット
自ら振り返っている通り、彼にとって最初のアルバム
"「BURN」のレコーディングの時は従順に
“リッチーをハッピーに”していた"
"デイビットも「次のストーム・ブリンガーの
時はかなり逆らい"
"それがリッチーの脱退に結びついたのだろう」と
デイビットは分析しているのです。"
"しかし、リッチー自身はデイビットについて
悪い感情は持たなかったようです。"
"「『STORMBRINGER』では非常にファンキーなものも
やるようになっていたが"
デイヴィッド・カヴァデールがやるなら好きだった。
私は彼の声が好きだったんだ。
男らしい素晴らしい声だ。
私とイアン・ペイスが彼を入れたんだよ。
"ジョンやイアンはグレン・ヒューズも入れたがったが、
彼の声は好きじゃない。"
"だが、メインのシンガーがデイヴィッド・カヴァデール
なら問題なかった」と"
リッチーはデイビットについて語っているのです。
最近、デイビットは「リッチーとはメールや電話で
連絡を取るようになって絆を取り戻したんだ。
"彼はホワイトスネイクの成功を祝福してくれたし、
私もロック界の巨人である"
彼には敬意を持っている」と語っています。

しかし、「“Burn”と“Mistreated"の2曲こそ、私があのバンドで是非プレイしたかった曲だ。
しかし、次のアルバムの頃にはグレン・ヒューズが
"スターになり始めていた。
ダンス向きのソウルっぽい音楽だ。"
私はブルースは好きだが、ソウルは好きじゃない。
彼らがロックンロールではなく、ソウルをプレイしたいのなら、私が出て行くしかなかった」という
リッチーの発言からもグレンとの問題が
"「STORMBRINGER」から始まっていることが
分かります。"
"また、リッチーがアルバム「STORMBRINGER」
を嫌っているのは周知の事実にしても、"
"デイヴィッドと書いた“
”Stormbringer”“Gypsy""“Soldier Of Fortune” "
"等には満足していると言います。
“Smoke On The Water""のヒットと"
"「MADE IN  JAPAN」の大成功の後、
メンバー交代を経て出される"
"アルバムだけに、受け入れられるかどうかを
バンドは心配していたといい"
ますが、アメリカで74年3月、イギリスでは
"2月にリリースされた第3期初のアルバム
「BURN」は全米チャート"

最高9位、全英3位と好調であり、内容に対する
"評価も高いものがありました。
デイヴィッド・カヴァデールが経験不足であるため、ツアーに関しては"

ヨーロッパの小規模な会場で少しずつ始め、
1973年12月から74年1月にかけて北欧
ヨーロッパを回り、74年3月から大規模なアメリカ
ツアーが行われたのです。”BURN”のギターサウンドは
いろいろな解説の中で酷評されることが多いです。
ただ、投稿主には全くそのようには思えないのです。逆に

"あのようなサウンドは
ストラト&マーシャルが必須なのはもちろんのこと"
ampのイメージです。
"マーキングやプリアンプを様々にセッティングしても
なかなか出せるものではありません。リッチーは"

"もともとサウンドには無頓着と言われていますが、
このアルバムに"
”マーティン・バーチが関わっていないということも
一つの鍵になるのでは”と勝手に考えております。
"いずれにしても、リッチーのサウンドは
どんな時でも素晴らしいです。"

"デヴィッド・カヴァデールとグレン・ヒューズが
ツインヴォーカルという、今考えると凄すぎる"

構成の第3期1枚目のアルバムは「マシン・ヘッド」や

"「MADE IN JAPAN」と並ぶ
ディープ・パープル最高傑作の一つだと思います。"
"ライブ盤である「メイドインヨーロッパ」や
「MkIII:FinalConcerts」"
では、第2期とは明らかに音像の違うディープ・パープルの凄さが堪能できます。
"そして、第3期初のギグとなった
73年12月8日のコペンハーゲンでは"

デイビットが緊張し怯えていたといいますが、経験のあるグレンがデイビットをフォローできるところが
"二人のシンガーを抱える編成の強みでした。
全米ツアー中に参加した"
"74年4月6日の「カリフォルニアシャム」
では20万人以上という"
大観衆の前でヘッドライナーとして堂々たるパフォーマンスを行っています。結果的に
"第3期ディープ・パープルは
レコードも売れてライブも成功。"
"ギランの脱退というバンドの危機を
逆手に取ったディープ・パープル"
"快進撃でした。が、しかし
アメリカツアーに続いて4月18日から5月末まで行った"
全英ツアーが、まさか第3期唯一のイギリス
"ツアーになるとは、
誰も予想だにしなかったに違いありません。"
"しかし、グレンとデイビットの
自己主張が予想以上に強くなってきた"
"ディープ・パープルの中に、もはや
リッチーの居場所はなくなりつつあったのです。"


74年8月、ディープ・パープルが「STORMBRINGER」の

"レコーディングを終えたとき、リッチー・ブラックモアは
バンドに大いなる不満を持っていました。"
"それには様々な要因がありましたが、
ディープ・パープルが"

"自分の思うような音楽をストレートに追求できる場
ではなくなったことが"
"大きかったのです。リッチーの「”QUATERMASSの
“BlackSheep Of The Family”をカヴァーしたい」"
というアイデアが却下されたというのは、かなり象徴的な出来事で、彼は「ディープ・パープルでできないのなら
"ソロレコーディングしよう」
と思うようになったと言われています。"
"その直後、8月末にディープ・パープルは
短いアメリカツアーを行います。"
ロニー・ジェイムズ・ディオがリード・シンガーとして在籍していたELFは、このツアーで前座を務めたのです。
"このとき、初めてリッチーがロニーを認知したのです。
ディープ・パープルは11月から再び"

"アメリカツアーを行いましたが、
このときもエルフが前座を務め、その最中、"
リッチーが「“BlackSheep Of The Family"のB面の曲を明日レコーディングする」と宣言、
"ホテルの部屋で曲のアイデアを
ロニーに聴かせることになります。"
ロニーはリッチーからの”宿題”をきちんとこなして
翌日までに”16世紀のグリーンスリーブス”を完成。
"リッチーは自分のアイデアを完璧に生かしたロニーの
才能に感心し、ロニーとの共同作業の心地良さと"
.
ゴタゴタの絶えないディープ・パープルの状況を比べて、
"”ディープパープルから脱退したい”
という思いを強めたといいます。"
"74年いっぱいで、ディープ・パープルは
アメリカツアーを終了。"
次の大きなツアーは3月16日からの
ヨーロッパツアーということで、リッチーはその前に
"ソロアルバムを作ることにしたのです。
参加ミュージシャンはギタリストを除く"
"エルフのメンバー全員です。
ロニー・ジェイムズ・ディオ<vo>ゲイリー・ドリスコール<ds>"
"ミッキー・リ・ソウル<key>、クレイグ・グルーバー<b>
の4人です。「INROCK」以来"
"ずっとディープ・パープルのエンジニアを務めてきた
マーティン・バーチのプロデュースによる"
レコーディングは、ミュンヘンの「ミュージックランド
"スタジオ」で、
75年2月20日から3月14日にかけて行われました。"
"マーティン・バーチを起用した時点で、
すでに心は決まっていたかのように思います。"


"これでリッチーはディープパープル脱退の意思を固め、
ロニーに「ディープ・パープルをやめることにした。"
一緒にバンドを組まないか」と持ちかけたのです。
"ロニーはエルフのメンバーのことが気になりましたが、
リッチーは「ドラマーもベーシストもうまいから"
"バンド全体を取ってしまおう」と思っていたので、
両者の思惑は見事に一致します。"
"これに感づいたジョン・ロードはロニーに
「リッチーが辞めようとしている。"

一緒にバンドを組もうと言われても、絶対にやらないでくれ」と頼んだといいます。
しかし、その希望もむなしく、ツアー終了
"後、リッチーは正式にディープ・パープルを
脱退したのです。"
アルバム「銀嶺の覇者/リッチー・ブラックモアズ
引用元:
レインボー」は8月にリリースされ、それがそのまま
"ニューバンドの名前となったのです。
リッチー・ブラックモアズ・レインボー"

名義で新たなスタートラインに立ったリッチー。
"元々ソロプロジェクトモードで発信した
プロジェクトということで、バンドならでは"
"の統一性は若干希薄に感じられるものの、
ワイルドな質感は"
"なんとも新鮮でした。
先の”BlackSheep Of The Family”や"
"“16世紀のグリーンスリーブス”も収録されているほか、
”虹をつかもう”"
“スティル・アイム・サッド”もここで聴くことができます。
「私はロニーだけが欲しかったのではなく、ELFの連中が気に入っていた。
"ELFはレコードではとても良い演奏をして、
「これは最高だ。"
"素晴らしいバンドができた」と喜ばせてくれた。
だがリハーサルが始まると、"
一人ひとりの問題点が見えてきたんだ」と
"リッチーが言うように、この第1期レインボーは
優れたアルバムを作り上げながらも"
"ツアーの準備を始めると同時に崩壊しています。
ロニーは少々"
"辛い思いをしたようですが、
「彼らにはチャンスが与えられたんだ。"
"彼らがリッチーにとって
十分ではなかったのは私のせいではない」と"
"コメントしています。”首切りリッチー”
などと言われるのはまだ先の話です。"
"その後、ベースにジミー・ベイン
キーボードにトニー・カレイが加入。"
"さらにオーディションで元ジェフ・ベック・グループの
コージー・パウエルの参加が決まります。"
コージーの参加に関してロニーは「リッチーにとって

"コージーがジェフベックとプレイしていたことは
大きな意味を持っていたと思う。"
"コージーの前にはカーマイン・アピスも
考慮の対象に入っていた。"
"40人以上のドラマーを試したが、
いずれも上手くいかなかった」と語っています。"

「リッチーは決まってシャッフルをプレイさせるんだ。
"彼がシャッフルを弾き始め、
それに合わせなければいけない。"
ほとんどのドラマーは20分くらいプレイして最後には
倒れてしまい、リッチーが『次!』と叫ぶ。

しかし、コージーは5分くらいプレイしたところで、
"「おい、いいかげんにしろよ!次!」と言ったから
リッチーは笑い"
私が『彼で決まりだと思うよ』と言うと、「俺もそう思う
コージーお前にするよ」と言ったのさ」と

ロニーはオーディションの様子を語っています。
"「リッチーはイギリス人を
入れたかったんじゃないかな」とも"
"ロニーは指摘していますが、
ハードロック史上最も個性的かつ"

"最もパワフルなドラマーの参加で
バンドの格は一気に上がったのです。"
また、これを機にリッチー・ブラックモアズ・レインボーからブラックモアズ・レインボーに改名
バンド色を強く打ち出した体制を整えました。
11月から行われる大規模なアメリカンツアーは、新生

"レインボーのウォーミングアップを
兼ねたものとなりました。76年2月より"
"ツアー出たテンションを盛り込むべく、レインボーは
セカンドアルバムのレコーディングに着手。"
名盤中の名盤「虹を翔ける覇者/RAINBOW RISING」

"は同年7月にリリースされました。
前作でリッチーやロニーと共に"
"プロデュースを務めたマーティン・バーチですが、
このセカンドでは単独で"
"作業を手掛けています。
PURPLE時代からハウスエンジニアとして"
"リッチーと交流の深いマーティンが
前面に出たことで、サウンドは"
"よりバンド的統一感が増し、
パワーアップした印象を受けます。"

"お聴きになった方はおわかりと思いますが、
オリジナル盤(アナログ)では"
"ほぼリッチー、コージー、ロニーの
音しか聴こえてきません。"
"ここからが3頭政治の始まりです。
オープニングを飾る「タロット・ウーマン」の躍動感、"

特にタイトなコージー・パウエルのドラミングは圧巻の一言に尽きます。イントロのコージーの

フィルを聴いて腰を抜かした方は数限りないでしょう。
"そして、バンドの凄さを遺憾なく発揮するのは
アルバム後半です。"

"アナログ盤のB面に僅か2曲しか
収めないで大作に挑んだ"
"「スターゲイザ一」と「ア・ライト・イン・ザ・ブラック」は、
当時としては斬新なアイデアでした。"

これもリッチー、ロニー、コージーという顔合わせだからこそ生まれた発想だと思います。
"実際、「スターゲイザー」に於けるリッチーのギターは、
ボトルネックを駆使した創造的な世界を作り出しています。"
"そこにコージーのツインバス、
さらにはロニーのパワフルボイスが"
"これぞレインボーと言いたくなるほどの
模範型を貫きます。"
"「ア・ライト・イン・ザ・ブラック」も含め、
卓越したテクニックと"
"見事な曲構成が光ります。
一気にアルバムを聴き込むと、当時も"
"今も心地よい疲労感とともに
圧倒的なパワーからくる驚きや発見を感じます。"
"アナログであろうが、デジタルであろうが
”良いものは良い”という一例だと痛感いたします。"
"アルバム「虹を翔る覇者」を契機に、バンドとしての
クリエイティビティをバージョンアップさせた"
"彼らはまもなくRAINBOWと再度改名し、
76年12月、伝説となった初来日公演を行うのです。"
76年のワールドツアー最終日程として組み込まれたのが日本ツアーでした。
メンバーは12月1日に来日し、リッチーにとっては73年6月以来の来日となります。
75年に第3期ディープパープルの来日が予定されていたのですが、その発表前にリッチーの脱退によってキャンセルとなっていました。
"そのため日本のファンにとっては
まさに待望の再来日となったのです。"
その興奮と熱狂は初日の公演で現実となります。
初日は12月2日、東京都体育館でした。 
オープニングの「Over The Rainbow」のサウンドが炸裂したその瞬間、観客の興奮が絶頂を迎えます。
そして「Kill The King」のイントロとともに観客がステージに押し寄せてしまいます。
会場は大混乱となり、「Mistreated」 のイントロを弾いていたリッチーが途中で演奏をやめます。
そしてしばらくして主催者からメッセージが入ります。
"「あまり押し合うとショーが進行しません。
皆様のご協力をお願いいたします」"
この頃のレインボーのコンサートの状況がありありと伺えます。
興奮はエンディングまで冷めやらず、スティルアイムサットの途中で挿入されたコージーパウエルのソロ、
大序曲1812年のサウンドが響き渡り、日本の観客は初めてコージーパウエルの偉大さを知ることとなります。
アンコールの「Do You Close Your Eyes」ではリッチーのギター壊しが炸裂し、初日にして早くもバンドの状態は全開。
日本のファンの期待に見事に答えたのでした。
"このツアーは武道館公演を含み、大阪、
名古屋で行われ、軒並み大好評を博しました。"


"しかも同ツアー中にライブレコーディングされ、
それは後にドイツ"
公演でのテイクも加え、「RAINBOW ON STAGE」の

タイトルでアルバム化されます。特にトラック5
1976年12月16日、武道館夜

公演での「16世紀のグリーンスリーブス」は
秀逸で、”ハードロックの完成形はここにある”と投稿
主はひそかに感じている次第です。
パンクブームによる逆風でハードロックが低迷していた時代だったため、名盤

「RAINBOW RISING」はお世辞にも
"世界的な大成功を収めるには至りませんでしたが、
この時期のレインボーが提示したものは"

"まさしくハードロックの理想形であり、
とりわけここ日本ではこの第2期レインボーの楽曲"
"コンサート形態を”様式美”
として崇拝する熱烈なファンを"
"多数生んだと言えます。日本も含め、
ハードロック/ヘビーメタルの様式美を体現している"
バンドは他にも数ある中でレインボーのパフォーマンスのみを特に様式美とみなすのは
"論理的には不自然ですが、
そのことがレインボーの影響力の大きさ、他のバンドとは"
"レベルが数段異なる突出した凄さを
物語っていると言えるのです。"
この時期のレインボーの凄さは、レッド・ツェッペリンや
70年代前半のディープ・パープルに匹敵していました。
しかし、凄かったのはリッチー、ロニー

"コージーの3人であって、ツアーを通じて
他の二人との格差が問題になったようです。"

"実際に77年2月に「ミュージックランドスタジオ」
でサード"
"アルバムのリハーサルに入ると同時に
ジミー・ベインの解雇が決まるのです。