QUEEN 全ては日本から始まった!「クイーン」フレディ・マーキュリーの愛した日本とは!?【衝撃 | truth-of-japanのブログ

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「第91回アカデミー賞」において最多となる
4冠を受賞した映画"
"『ボヘミアンラプソディ』のDVDが
いまも人気を集めています。"

この映画は特に日本で大ヒットし、
2018年の国内映画興収ランキング
"ではナンバーワンに輝き、クイーンの母国である
イギリスをはるかに凌ぐ記録を打ち出しました。"
この動画をご覧の皆さんの中には、この映画によって
"クイーンの存在を知ったという方も
いらっしゃるかもしれません。"
"クイーンはイギリス・ロンドン出身の、
フレディ・マーキュリー、ブライアン・メイ、"
"ジョン・ディーコン、ロジャー・テイラーの
男性4人組ロックバンドです。アメリカ、イギリス"
日本を中心に、世界中で最も成功した
"バンドの一つであると言えます。 
「ウォールストリートジャーナル」が発表した"
"「史上最も人気のある100のロックバンド」では、
第3位にランクインしています。 "
実は、このクイーンが日本とは切っても切り離せない
"大変深い関係にあることをご存知でしょうか。 
逆に言えば、日本の存在なしにクイーンは語れません。"
それはどういうことなのでしょうか。
これから詳しく見ていきましょう。
"クイーンはボーカルのフレディ・マーキュリー存命時に
計6回の来日を果たし、"
"その6回のジャパンツアーでは
全50回のコンサートが行われました。"
1975年4月に初来日したクイーンは、3枚目のアルバム
"「シアーハートアタック」を発表し、
「キラークイーン」がヒットして"
世界的にも人気が上昇し始めた頃でした。
"しかし、それでもまだデビューアルバム
リリースから2年目の新人"
バンドだったのです。 1974年から75年にかけて
"初のアメリカツアーに挑みましたが、それはあくまでも
他のアーティストの前座としてのツアーでした。"
初期のクイーンは当然のことながら、他のバンドと
同じように、母国イギリス、そして大西洋を越えた
"アメリカ市場での成功を収めるために、
努力していました。"
しかし、日本ではクイーンが来日する前に注目が集まり、
"それは今日まで続く日本との
深い絆の始まりとなったのです。"
"自分たちの音楽性とステージパフォーマンスに
日本のオーディエンスが魅了されていることを知った"
クイーンは1975年4月に
8日間にわたる日本ツアーの実施を決定します。
"そんな彼らを日本では1000人を超えるファンが
羽田空港で出迎えたのです。"
クイーンの長年の友人でもある宇都宮カズ氏は、
その特別な到着を次のように振り返っています。 
"空港に3000人もの人が集まってくるとは、
誰も予想していなかったと思います。空港にいた人は、"
"誰もが、”これはビートルズの再来だ”
と思ったでしょうね。"
"そんな日本でのクイーン人気の始まりを、
宇都宮カズ氏は、"
"当時、ロックグループのバンドは
主に男性客に支持されていましたが、"
「ミュージックライフ」がクイーンの写真を載せたことで女性ファンとの新しい世界が開け、

"日本では男性のファンも
女性のファンも共に獲得できたんです。"
"この最初の出会いがクイーンと
日本の深い絆の始まりとなり、"
"それぞれがお互いに良い印象を残すことに
なったのです。1976年に発売されたオリジナルアルバム"

「華麗なるレース」に収録された
「手を取り合って」は、サビが日本語で歌われた曲で、
"ブライアン・メイが
日本のファンへの感謝として作曲したものです。"

"この日本のファンにとって特別な曲について、
宇都宮カズ氏は、"
"「日本のファンは「手をとりあって」のような曲を
クイーンが作るとは夢にも思っていませんでした。"
"「手を取り合って」の演奏は
日本でしか聴くことはできないと思います。 "
"当時、日本では人気音楽誌「ミュージックライフ」が
クイーンを紹介したことにより、彼らのルックスの良さや"
"きらびやかなパフォーマンスに多くの女性ファンが魅了
されていました。 数多くのマスコミが集まる来日記者会見も"
"開かれ、母国のイギリス以上のトップスター扱いに
クイーンのメンバーは"
"とても感激し、日本のファンに対する
感謝の思いが強まったことにより、"
"その後の日本とクイーンとの
親密な関係が築かれていきます。"
"日本での最初のコンサートは
世界的に有名な日本武道館でした。"
"ドラマーのロジャーテイラーは
「日本でクイーンの需要があることは"
"聞いていたので、
アメリカツアーの最後に付け加えたんです。 "
"ハワイで休暇を過ごした後に日本に行きました。 
空港に着いてみると、想像していたのとは違う"
"規模で何1000人もの人々が
私たちを歓迎してくれていた。"
普段は受けないような光景でしたね」
"当時の様子について、
ニューヨークを中心に音楽活動を続けている"
松本秀樹氏は、「クイーンが来日した時にはまだ
"ワールドツアーを敢行できるほどの
トップミュージシャンではありませんでした。"
"ですが、日本では本人たちも驚くほどに
クイーンブームが沸き起こっていて、"
かつてビートルズが公演した日本武道館での公演を
はじめ、全ての公演が大盛況となりました。
そのような中で、日本で自信をつけた彼らは
"アメリカツアーに打って出るのです。 
やはりミュージシャン"
"アーティストとして成功を収めるためには、
全米でヒットすることが条件となります。"
ただし、全米ツアーを敢行するためには資金が必要です。
あの広いアメリカを回り、自分たちの認知を高めて
"レコードを売っていくためにはしっかりとした
マネージメントと大規模なプロモーションが"
必要となります。それを実行するためにはお金が要る
普通のバンドは資金がもたなくて世に出ることがない
"まま潰れてしまうのです。 ですが、
クイーンがラッキーだったのは、まず日本で売れて"
"日本に呼ばれたことにより、
日本で活動資金を得ることができ、"
"そこからアメリカをはじめとするワールドワイドな
ツアー展開をすることができた"
"もし日本で資金を得ることができなかったら、
アメリカツアーは敢行できなかったかもしれません"
もっと言えば、その後のアルバムもリリースできなかった可能性もあります」と語っています。 来日
"公演を終えたクイーンは、
1975年10月に4枚目のアルバム"
"「オペラ座の夜から」の
先行シングル「ボヘミアンラプソディ」を"

リリースし、全英9週連続1位の大ヒットを記録します。
"アルバム「オペラ座の夜」も初の全英1位を獲得し、
クイーンに批判的だった"
"メディアを含め、
高い評価を得るようになっていきました。"
その後、クイーンは1976年に
"アメリカやオーストラリアなどで
次々とツアーを敢行します。"
"そして、まさに名実ともに
トップスターとなったクイーンは、同じ年に"
"2度目のジャパンツアーで来日を果たしました 
2回目のツアーは18日間"
6都市11公演。大阪や福岡では
昼夜2回公演という強行スケジュールの中、日本の
"多くのファンを熱狂させました。 
クイーンは1985年まで"
"定期的に日本公演を行いましたが、
宇都宮カズ氏によると、"
"バンドは常に独自のアプローチを
模索していたといいます。 「初期の頃は"
日本全国の都市を回っていて、北海道の札幌に行ったり、仙台にも行っていたりしました。
そこまで日本全国を回る海外のバンドは少なかったので日本のファンはとても心を打たれました。
"日本には海外から多くのバンドがやってきますが、
東京と"
"大阪にだけ行って、東京以外の都市の
文化を見る機会はほとんどありません。"
しかし、クイーンは初期の頃、それも初日から
"日本を知ろうとしたのです。
 東京や大阪以外の都市の人々も、"
海外のバンドを見る機会はほとんどありませんでしたが、クイーンは多くの都市を回ることで、日本での人気が
さらに高まったのです」 当時を振り返ると、クイーンが
"世界のトップスターの座に就けたのは、
日本のファンの力も大きく影響したようにも感じます。"
その点について、松本氏は「実は日本にいる
"古くからの熱烈なクイーンファンからは、
映画「ボヘミアンラプソディ」では"

"”日本のファンがクイーンを世界のスターに押し上げた
事実やエピソードがカットされてるのでは?”と"
"不満の声をあげている人もいるようなのです。 
もともと、クイーンに実力があったから"
"こそ、成功したことは確かなのですが、
日本のファンがその才能と実力に"
"真っ先に気づき、日本から人気に火がついたこと、
日本人のファンには"
"先見性があったことを描いてくれていたら、
”なお楽しめる映画になっていた”と」"
"確かに、こうしてクイーンのスター街道を辿ると、
日本人の先見性"
見いだす力が大きく影響しているように感じます。 
"であるならば、
海外の逸材の発掘だけでなく、日本国内に存在する"
逸材を世界に送り出すことも本来、
日本人が得意とすることなのではないでしょうか。
その点について松本氏は「私はニューヨークに住み、
日本をはじめ、さまざまな国を訪れることが多い
ですが、日本の場合は自分たちの外にある人物や物事を
"称賛するのが得意でも自分たち自身を宣伝することは
不得意であると感じます。"
" 他を応援するのが積極的にであるのに、
自らを売り込むのは苦手"
もちろん、そこが日本特有の奥ゆかしさという美徳でも
あるのですが、国際社会、国際舞台で勝負するためには
美徳だけでは通用しません。 もともと、世界の中でも
資金力はあるのですから、それを生かせる場を作ることができるのは大きな強みです。 資金や資力を
上手に循環させることができれば、日本や日本人が持つ
先見性を活かして、様々な分野で成功を遂げる
道が開けてくるのではないでしょうか」
"そして最近、ボーカルの
フレディ・マーキュリーの”日本愛”が"
改めて理解できるニュースが飛び込んできました。
フレディが亡くなって30年余り
その遺品の数々がオークションに出品されたのです。
ロンドン市内で公開されている遺品のうち、
日本に関連したものはなんと200点以上、
1991年45歳の若さで亡くなったフレディ
"今回、オークションに合わせて公開されているのは、
ロンドンの自宅で保管されていた"

"遺品の数々です。 コンサートでフレディ
が身につけた王冠や赤いガウンなどの衣装、"
"それにクイーンの代表曲のひとつ、
「ボヘミアンラプソディ」のタイトルが書かれた"
自筆のメモなど、その数およそ1500点にのぼります。
"遺品を管理していた友人の
メアリーオースティンさんが身辺整理を"
"理由に手放すことを決めたと、
イギリスの公共放送BBCが伝えました。"
"ロンドン市内にあるオークション会社では
多数の遺品が公開され、"
"遺品が一般に公開されるのは初めてだ
とオークション会社"
日本美術担当ジョンアジェティさんは語ります。
"「フレディが木版画を購入していたことや、
オークションで"
日本の美術品を落札していたことは知られていますが
その全貌を見たことがある人はほとんどいません。
"彼がどれほど熱心に日本の美術品を収集していたか、
人々は"
気づいていなかったと思います」 先に申し上げましたように、クイーンが初めて日本を訪れたのは、
1975年4月、2週間近くに渡って
日本各地で公演を行いました。 アジェティさんは
"フレディーは日本のファンから
熱狂的な歓迎を受けました。"
"彼はファンだっどれほど親切に
どれほど丁重に接してくれたかを実感したんです。"
"彼が滞在中に外に出れば多くの人が
フレディーに気が付きました。"
しかし、日本のファンは道路の反対側にいて、
"彼のプライバシーを侵害することはなかった
というエピソードもあります。"
"フレディはそうした出来事に
信じられないほど感動したんです。"
"その後、フレディはプライベートでも
日本を訪れ、各地の美術館や"
"ギャラリーで着物や帯、陶磁器、木版画、
漆塗りのアンティーク"
"家具などを大量に買い求めたといいます。 
アジェティさんは"

"「1986年にプライベートで日本を訪れたときには
かなりいろいろな場所に行ったことが"
"わかっています。 九州の美術館を訪れたり、
輪島に漆器を買いに行ったりしているんです。"
"フレディーは、日本や日本に関係する
あらゆるものを愛していました。"
唯一の例外は、彼が生の魚が嫌いだった
"ということです。 寿司と刺身は
唯一食べられませんでした。"
それを除けば、彼は日本文化と日本人が大好きでした」 明治時代から20世紀
初頭の日本のアンティーク木版画の分野では
"イギリス最大級のコレクションを所有している
とも言われていた"

フレディ。数々の遺品の中でも、特に目を引くのが色鮮やかな着物です。 アジェティさんは、
フレディーの着物に対する愛情は日本美術に対する深い理解を物語っていると思います。
特にこの着物には強いこだわりを持っていました。
"彼がステージで動くと長い袖が
とてもドラマチックに見えるんです"
"オークション会社では、
今回、遺品の中に日本関連のものが"
"多く含まれていたことから、
「In Love With Japan」(にほんに恋して)"
"と銘打って、ほかの遺品とは別に、日本に関する遺品だけを集めたオークションを開いています。アジェティさんは 
"
「フレディーは美術学校に通っていたことがあり、ファッションにも精通していました。
それが彼の日本美術特有の細かい技術への評価につながったのだと思います。
"彼は、日本の芸術の質の高さをとても
評価していました。 木版画も着物も"
"漆器もたくさんあります」 日本語の歌詞を含む
楽曲を制作していたことでも知られるクイーン"
"今回、オークションに出される遺品の中には、
その歌詞を"
フレディ自らが書き残していたメモもあるといいます。 アジェティさんは
「今回出品されるものの中には、彼の描いた
"『ラ・ジャポネーズ』という楽曲の歌詞もあります。
 手書きの歌詞は"

ローマ字で書かれていて、彼の所有していた本の中には
"日本語の辞書もあったので、
おそらく彼はこの辞書を使って日本語を調べ、"
"ローマ字で書いたのではないでしょうか」
”遠い国のあなたに魅せられて、"
あまりにも美しい夢のよう”「ラ・ジャポネーズ」のなかでの中でこう綴っている
"フレディ。日本人に魅せられ、
さらに日本を理解しようと目を向けた"
"日本の文化は、彼にとってのユートピアだったに
違いありません。"
"そして、その優れた日本文化の世界に
どんどん心酔していったのでしょう。"
"彼のコレクションの数々が
そのことを雄弁に語っています。"
"彼が日本を愛したように、
死後30年以上が経っても、その人柄と"
"楽曲は、多くの日本人の心に
残り続けているように感じます。"
こうしてクイーンと日本との関係性を振り返ると、
私たち日本人の持つ先見性の生かし方を改めて
"考え直すことができるように思います。