~浅草『とらんくすや。』の浅草徒然日記~ -26ページ目

~浅草『とらんくすや。』の浅草徒然日記~

『とらんくすや。』の親父の毎日を日記に更新していますので、皆様の浅草観光のお役に立てれば是幸いです
今回 ペタ いいね!が受け付けられない事態になりました
お客様の接客を最重要視していかねばなりません
何卒、ご了解の程お願い申し上げます

賭け事 何時の時代から・・・


浅草には、場外馬券場がございます

土曜日、日曜日には、

競馬ファンで大賑わいでございます


要するに賭け事でございますね

日本人の賭け事好き何時に始まったのでしょう


宗教的儀式から始まったとされます

人間とは、

やはり煩悩の生き物でございます


占い です

どうなるか未来は判りかねます

不確実な世界です ですので 

占い に頼ってしまうのでしょう


サイコロ サイは投げられた 
と神に縋(すが)るのです

「運」「つき」を占うのです

最初にサイを投げたのは、
神主や僧侶でございますかな


日本で一番初めの賭け事は、

盤双六(ばんすごろく)
と言われます

686年 飛鳥時代

 天武天皇の時代です


現在の双六とはちと違いますぞ


白と黒のコマを 15個ずつ 持ち、

竹筒に入った2個のサイコロを振り、

出た目の数だけコマを進め、

早く相手の陣地にたどり着いたほうが勝ちなのです


江戸時代

盤双六は、廃(すた)れていき

簡単な、サイコロだけの

「丁」か、「半」かの世界に入っていくのです

後は、御存じの花札です


更に 

宝引き(ほうびき)
というものもありました

数本の縄のどれかに当たりの印を付けておき、

それを引いて当てると言うものです

結構これが流行ったそうです

幕府から廃止命令が出た程です


色々考え、賭け事にしますよね


更に、吃驚は・・・

座敷鷹 でございます


蝿(はえ)を取る蜘蛛を皆が持ち寄るのです

逃げないように羽を切って、

蝿(はえ)を放つのです

先に捕らえた蜘蛛の持ち主の勝ちです

木場の旦那衆がこっそりやっていた賭け事です

鷹狩に似ているので座敷鷹と呼ばれたのです


考えますな~


しかし、これ見つかりますと大変ですぞ

生類憐みの令に引っ掛かりますぞ!

くわばら くわばら


昔から、賭け事 無くなりません

人間の煩悩ですかな

仏の道に入らねば無くなりませんかな


おっとどっこい


最初に、占いで サイを投げたのは

何を隠そう 御坊様でしたぞ

煩悩の塊 とらんくすや。親父

迷って当然ですかな・・・



















美人 美女 違いは?


美人は、美しい男性 美女は美しい女性と

漢字上では、定義されますが、

現代では、美人と言えば、美しい女性であります


平安時代の美人は

肌理(きめ)の細かい色白の肌、小太りで、

顔形は下膨れ(しもぶくれ)、
顎先(あごさき)は丸く、

眼は、引目という細い眼、

頭髪は長くしかも水分の多いしなやかな髪の毛

だったのです


戦国時代

武士は、戦争に女性を連れていけません

それで、小姓となったのです

戦場での、小姓との 愛が流行ったのです
これが、衆道(しゅどう)でございます


小姓とは・・・

元服したての15歳からの男の子です

すみません  

この当時は、
15歳で元服すれば立派な大人ですね


秘書的役割をこなし、戦時、行軍の折りには、

本陣、本隊を最後まで守り抜く部隊です

特に主君の盾として命を捨てて守る役目だったため、

知識、作法、武芸を身につけていなくては

務まるものではなかったのです


衆道(しゅどう)とは男性の同性愛関係の中で、

武士同士のものを言います

若衆道(わかしゅどう)とも言いますが・・・


少年美の醍醐味は 鶴の味・・・


この後の美人の形は、この小姓からきたものなのです

小姓の様な美人なのです


小姓のスタイルとして、

瓜実顔(うりざねがお)、きりりとして、柳腰、

これが、美人のモデルとなったのです

あら、不思議ですね

男装の美人(美女)も現れるのです


ところが、肺病が流行ったのです

労咳(ろうがい)と言って当時は、

直す事が出来なかったのです


細い腰、瓜実顔の美人達が病に倒れたのです


それと、大名達の世継ぎ問題

嗣子(しし)つまり後継ぎがいないと、

家名断絶となるのです

絶家した大名は四十四家にもなったのです


そうすると、

世継ぎを産める女性は?


骨盤の広い大きなお尻で、丸顔で、健康

立派な世継ぎが産める女性となったのです

町人も、これに右へ習えでございます


しかし、男の要望はこれで収まりませんでした


顔は丸く色は薄花桜にして

目はぱっちりと口小さく

首筋伸びて 後れ毛(おくれげ)無く

手の指長めに 足ほっそり 

腰つき締って お尻豊かなるが良し


良い所取り でございます


美人(美女)世の動きで変わってしまいますね


とらんくすや。親父

女性の好みを述べる歳では有りません


男の好みの心変わりに

変えていかなければならない女性

申し訳なく存じます

女性の皆様 どうぞ お許しを























医者の始まりは、江戸時代から?


戦国時代 武士たるもの全てが、

戦場にて戦うのが当たり前の時代でございます

戦場に出ないのは、臆病者とされていました

戦場に出ても役に立たないものや、

臆病者を活用したのが医者の始まりなのです


その他、お坊さんの医者もいましたが・・・


戦争においては、必ず負傷するもの、

病気になるものが出ます

その人達の手当てをするものとして

役目をおびたのです


金瘡医(きんそうい)
という名前で活躍したのです

名前の由来は、

刀剣、槍(やり)などによる金属製武器による

傷の手当てをする為の外科医なのです


戦闘員でないという印の為

頭を剃って、坊主にしたのです


江戸時代には、
名前がいろいろありますよ

御典医(ごてんい) 幕府お抱えの医者

奥医師(おくいし) 将軍の家族の為の医者

表医師(おもていし)表御殿、藩の為の医者


御医者様 位があります

法印(ほういん)

法眼(ほうげん)

法橋(ほうきょう)


お坊様の位でしょうかね

坊主頭だからでしょうか


そして、庶民の診療に当たるのは

町医 であります


町医 は、御典医、奥医師の脱落者や、

薬種屋(やくしゅや)の番頭などが、
開業したと言います


* 薬種屋(やくしゅや)とは、
今の薬屋さんですね


だから江戸時代 
町医者の面白い話が小噺であるのですね

少し エッチな小噺ですが・・・

ある良家の若妻が、医者に聞きます

「松茸を食べて良いですか?」

医者答えます

「松茸食べて良いですよ、

松茸の様なものはいけませんな」

ムム~ ? ですね 

これが、町医者でございます

頓知と機転で直す町医者でございます


沢山の金を取る町医者もいたようですが

総じて、江戸の医者 
長閑(のどか)でございます


とらんくすや。親父

長閑(のどか)に、
藩津(ぱんつ)で、心を直す

浅草町医者でございます
・・・褒めすぎですかな?















鯉のぼりの歴史

いよいよ明日は、
子供さん大喜びの5月5日です

鯉のぼりなどで、男の子を祝う日ですが・・・


この鯉のぼり、
実は起源は、江戸時代からなのです


端午の節句 最初の午(うま)の日に行う

厄除けの行事だったのです


奈良・平安時代の端午の節句の日には、

厄除け行事が行われる重要な日だったのです

宮廷で、軒に菖蒲や蓬(よもぎ)

臣下達は冠に菖蒲を飾ったり

菖蒲の葉で作った薬玉(くすだま)を
柱に下げたり
したのです


ちょっと 脱線


節句について


節句は五節句と言われ、次のようになっています

人日(じんじつ) 1月7日 七草の節句

上巳(じょうし) 3月3日 桃の節句・雛祭

端午(たんご)  5月5日 菖蒲の節句

七夕(しちせき) 7月7日 七夕(たなばた)

重陽(ちょうよう)9月9日 菊の節句

日本の宮廷では、節会というものが行われました


鎌倉時代に入り

武士が、菖蒲と
尚武(武道、武勇を重んじる)にかけて

この日を大切にするようになりました

江戸時代に入り

幕府の重要な式日となったのです

将軍に世継ぎが生まれると大変です

各大名、旗本は、江戸城に登り、
祝いを述べたと言います


武士の家庭では

先祖伝来の兜を奥座敷に奉り、

玄関には旗指物(はたさしもの)を
飾ったのです

男児の出世と武運長久及び
健康を願って行ったのです

ところで・・・


裕福な商人は

武士に負けじと頑張りました

鎧や兜の模造品で、対抗

旗指物には、吹き流しで対抗です


これじゃ~ 面白くもね~


この吹き流しをにしたのです

登竜門伝説にあります 

登れない滝を見事に登り切り
鯉が龍になるというものです

鯉の幟(のぼり)を一部の商人が
使ったのが始まりです


江戸を中心に広まったのです

当然 その当時は錦鯉はおりません

黒い鯉 でございます


鯉のぼり 江戸っ子のお蔭ですぞ


江戸っ子は皐月の鯉の吹流し


江戸っ子は、言葉づかいは荒いが、

腹の中はさっぱりしているという意味ですが

口先だけで、腸(はらわた)が無いとも


おっとと  当然です

鯉のぼり 腹の中は空洞ですぞ

鯉のぼりが、空で泳げるのは、

腸(はらわた)無しだからですね


さっぱりした江戸っ子のお蔭で、

鯉のぼりが出来たのです

男の子に、言い聴かせたい 

とらんくすや。親父でございます


















江戸の女性の旅の困難は?


ゴールデンウイーク突入でございます

皆様、海外へ旅する方も多いでしょう

旅、現在は結構気軽に行く事が出来ます


しかし

江戸時代では、その様な事はございませぬ


旅は道連れ世は情け


江戸いろはかるた でございますが


やはり、一人では危なくて、
旅が出来なかったのです

一度(ひとたび)旅に出れば、

寸時も油断するでない と言われています


だから、旅は道連れ です

友が必要だったのです

東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)

十返舎 一九(じっぺんしゃ いっく )の

滑稽本に書かれていますが

弥次郎兵衛喜多八 弥次喜多でございます

がいないといけないのです


旅の途中には、山賊、雲助、護摩の灰が、

出てくるのです

山賊、雲助は御存じだと思いますが、


護摩の灰とは・・・


高野聖(こうやひじり)のいでたちで、

弘法大師の護摩の灰と偽り、

押し売りをして歩いた者がいたことから、

騙して売る者や、

押し売りをする者を呼ぶようになったのです


浅草にも、たまに、外国人の坊さんの格好をした

護摩の灰がいます

御利益が有るという金(きん)の札を、

外国人中心に、騙して販売していますよ

お気を付け下さい


ようするに、危ないと言う事ですな


特に、女性の一人旅はとんでもないとされました


何故か?


関所でございます

改め婆さんと言われる人です

入り鉄砲に出女 の監視です


特に、女性が関所を通る際には厳しかったようです


賄賂を渡さないと意地悪をするのです

髪を全て解かさせたり、取り調べの為

身体をむりやり触ったりしたようです


家来が付いているか、屈強な鳶様を付けるか

女性の旅は、大変だったようですね


今は、何も気にせず旅行、

関所もございません 現在の女性幸せですね



ゴールデンウイークも旅行に行けず、

店番を致します 
とらんくすや。親父でございます

トホホ・・・・・




















江戸 農村の食事


一日二食が殆どだったようですが


さて、食べる為の道具

もちろん 茶碗と皿とお箸・・・ 

では無いのです

特に茶碗や皿ですが、
高級なものだったのです

使えません

割れればとんでもない事になります


ですので、

木の葉っぱ使っていました


多く使われたのは、
桐の葉っぱと言われています

茶碗の産地は、尾張が多く

馬中心の配送網でしたので、
この重い物は
なかなか、運べなく、
一般には広がらなかったようです

高級なものでもあったので・・・


主食は、

麦、粟(あわ)、稗(ひえ)だったのです

あと 汁、山菜でございます


魚は食べていたのでしょうか?

いいえ、海に面した村でも、

魚を取って食すということは

江戸時代以前では、
無かったようでございます


江戸時代に入り、

江戸や、大坂など都市向けに、

魚を取るようになりました


高級魚の鯛などは、殿様や、

金持ちの食べ物となりました

農村では、こうして取られた魚の中で

(いわし)などが、
漬けにして食されたのです


特に山間の農村では、塩 が貴重です

塩鰯(いわし)の食し方ですが・・・

初日 焼いて、舐めるだけ

二日目 頭を食べる 三日目 残りを食べる

 

 身体の為に大事と考えられていたのです


いや~ 質素でございます

しかし、 

農民はにこやかに、
のんびり生活していたようです


塩の話が出ましたが

日本は、塩から生まれた島ですぞ


伊邪那岐命(いざなぎのみこと

矛(ほこ)で海をかきまぜていました

矛を海から引き揚げた時、

その先からぽとりと滴が落ち、

その滴が固まった時、そこには島ができていました

塩の滴でできた最初の島が淡路島

それを足場につくられたのが日本の島々です


塩 大事です


塩を取り過ぎ 血圧が高い とらんくすや。親父

有難味を感じ、今後、焼き魚を三日がかりで食す

修行をせねばと感じている処でございます

















江戸 銀の道 シルバーロード?



江戸時代

日本と朝鮮は、最大の貿易国相手だったのです

朝鮮半島に一番近い対馬で行われたのです

対馬(つしま)

日本九州北方の玄界灘にある島でございます

江戸時代は、

対馬府中藩(つしまふちゅうはん)でございます

現在の佐賀県、長崎県の一部でございます



藩主は、
二十代当主 宗
 義智(そう よしとし)

秀吉の部下、西軍に加担したのですが、

朝鮮との国交修復を進めることを望んでいた

徳川家康より、朝鮮との調整役として、

所領を安堵されたのです



しかし、
内容は、日本⇒朝鮮⇒清(中国)を結ぶ

貿易ルートだったのです



日本からは、
とんでもないものが出ていました



 なのです



黄金の国 ジパング だったのですが

このころ、金が底をつき

の国 日本だったのです



石見銀山をはじめとする鉱山の開発で

銀の大増産ができたのです

世界でも有数の産銀国になっていたのです



銀をそれだけ出して

何を買っていたのでしょうか?



生糸です

中国⇒朝鮮⇒日本の流れです

朝鮮人参、薬草

朝鮮⇒日本 の流れです

中間マージンで設けていたのは、朝鮮なのです



何故、

中国は銀が必要だったのでしょう

中国は銀による納税だったのです

日本のように、お米ではございませぬ

銀が必要だったのです

中国 清の時代は、貨幣経済だったのです

広大な国なので、
全てが、銀貨の決済となったのです



銀のもう一つの 
産銀国 はメキシコでございます

中国に、スペインなどとの交易を通じて

多くの銀が流入したのです

納税に関して、
発展していた 中国 清 なのでした



銀の道 

日本から 銀が流れていったのです

生糸や、朝鮮人参薬草などに、

お金、いや銀

費やした日本江戸時代始めなのでした



しかし・・・

八大将軍 徳川吉宗 様

奢侈禁止令(贅沢ご法度)など の改革で

絹から、木綿になど、質素倹約をし、

更に、

生糸、朝鮮人参等の薬草など、出来る限り

自給自足でやっていけるよう、

農業改革(勤勉革命)を行うのです



良かったと

胸をなで下ろす

とらんくすや。親父でございます

































江戸を褒める外国の方の言葉です


マシュー・カルブレイス・ペリー

日本に開国を迫ったアメリカ海軍の軍人です


「日本人の親切な気質と国土の美しさ、

絵のごとく、それ以上麗しい風景は他になかった。

至るところよく耕されている土地、

濃い豊かな緑のあらゆる草木」


ヘンリー・ヒュースケン

駐日アメリカ総領事館の通弁官

「この国の人々の質樸な習俗とともに、

その飾りけのなさを私は賛美する。

いたるところに満ちている子供たちの愉しい笑声を聞き、

そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができない

おお、神よ、

この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、

西洋の人々が彼らの重大な悪徳を

持ち込もうとしているように思われてならない」


バジル・ホール・チェンバレン

イギリスの日本研究家

「この国のあらゆる社会階級は社会的には比較的平等である

金持ちは高ぶらず、貧乏人は卑下しない。

ほんものの平等精神、われわれはみな同じ人間だと

心から信ずる心が、社会の隅々まで浸透しているのである。」


ツュンベリー

スウエーデンの医学者、植物学者

「この国の道路は一年中良好な状態であり

かつ排水の溝をそなえている。

上りの旅をする者は左側を、
下りの旅をする者は右側を行く。

配慮が及んでいるのである。

さらに道路をもっと快適にするために、

道の両側に灌木がよく植えられている

里程を示す杭が至る所に立てられ、

どれほどの距離を旅したかを示すのみならず、

道がどのように続いているかを記している。

この種の杭は道路の分岐点にも立っており、

旅する者がそう道に迷うようなことはない。

野蛮とは言わぬまでも、

少なくとも洗練されてはいないと

我々が考えている国民が、

ことごとく理にかなった考えや、

すぐれた規則に従っている様子を
見せてくれるのである。

ここでは、自慢も無駄も華美もなく、

すべてが有益な目標をめざしている。

それはどの里程標にも、

それを立てさせたその地方の領主の

名前がないことからもわかる。」


江戸時代の道路の事ですぞ!


エンゲルベルト・ケンペル

長崎商館の医員として来日したドイツ人

「世界中で非常に高く美しい山、
富士山が初めて見えた

この山はテネリファのように
信じられないほどの高さがあり、

周囲の山々は富士山に比べると、
ただ低い丘のように見える。

それゆえ富士山は旅行中、
数里離れていてもわれわれの道標となり、

特に私の地図を作るに当って
一つの規準として役立った。

その姿は円錐形で左右の形が等しく、

堂々としていて、草や木は全く生えていないが、

世界中で一番美しい山と言うのは当然である」


ニコライ・レザノフ

ロシアの実業家、外交官

「役人たちの威厳ある態度、礼儀正しさ、謙虚さは、

日本人が非常によく教育されていることを示していた」


外国人の皆様

こぞって、江戸時代の日本を称賛しています

日本の近代化を、危惧しているように見えますね


正に、その通りですね

食料、衣料、燃料 全て自給自足していた

江戸日本です

豚肉や、牛肉など食しなかった江戸日本です

今や、近代化の波なのでしょうか

生活が激変しています

その為に、海外からの圧力も増しています

神様 これからの日本良い方向へお導きを・・・

祈願致します とらんくすや。親父でございます












日本語の危機がありました


江戸時代、
識字率(読み書きのできる人の割合です)は、

日本は、世界一でした

それは、寺子屋のお蔭でございましたが

師匠(先生のことです)は、御金目当てで、

教えるのでなく、育てる事が本分だとし、

お金の無い子供からは

授業料は取らなかったと言います

現在とは、全く違う感覚の師匠ですね


当時世界では、

イギリス ロンドンで 20%

モスクワ で 20%

フランス で10%以下

でございます

いかに日本の識字率が高いか判りますね


しかし・・・


日本の文字の危機が有りました

1945年 昭和20年

戦争に敗れた日本でございます


玉砕するまで戦い抜く
日本人に吃驚したのです

武士道の精神、魂(たましい)がある日本人

当たり前の事ですが、
アメリカ人には理解できません


漢字などが入る難しい日本語

庶民は理解していないのではないか?

だから、玉砕するまで戦い抜くのではないか

という、訳です


判りやすいように、ローマ字にせよ

というとんでもない話になったのです


GHQでございます


一度調査せよとの話になり、

あらゆる日本人を調査したのです

あらゆる職種の人に、
漢字テストなどをしたのです


ところが・・・


アメリカ人 
日本人の識字率の高さに驚いたのです

色々な理由が有り

ローマ字は取りやめになったのです

一人の親日家がいたお蔭も有ります


ハロルド・ヘンダーソン 様です

日本の禅や詩歌を愛する方だったのです

そりゃ、日本語無くして、ローマ字では

とんでもないですね

この人の助けが無ければ・・・


ひょっとして、

恐ろしや、
日本語が無くなっていたやもしれません


もう一つ 日本の公用語

フランス語にせよとの話もあったようですよ


日本人、日本語が一番合っています


日本の美意識 侘(わび) 寂(さび)が

台なしになる処でした

くわばら くわばら・・・

胸を撫で下ろす とらんくすや。親父でございます
















メキシコと日本 深い仲!


メキシコの方が御来店です

メキシコの方、お買い上げの後に、

銀貨など置き、感謝の印を示されます


凄いですね それが、何回も有るのです

不思議?


とらんくすや。親父 何時も

「ありがとう」

と、感謝を述べます


ところが、実は・・・

メキシコと日本は、

実は 深~い 仲 なのでございます


1609年と言いますから

400年ちょっと前の事です

時は、江戸時代です

フィリピン総督のドン・ロドリゲスの

船が、メキシコへの航海で、大暴風雨の為

座礁したのです、
それが、現在の千葉県であります

房総の御宿海岸でございます

服は破れ、寒い中で、
海から這い上がった船員は

317名もの方でした

地元の海女さんや、漁師さんは

それを見つけ、
救助の手を差し伸べたのです

衣服を与え、食事を与え、
寝る場所確保したのです

領主 本多忠朝は、篤い接待をしました

二代目将軍 徳川秀忠 様 

駿府城の徳川家康 様とも

面会が出来たのです


その頃には、三浦按針(みうらあんじん)

またの名を、ウイリアム・アダムスが、

家康 様 に仕えていたのです


そして、

メキシコへの帰る為の船を三浦按針に

作らせたのです


1610年 6月13日に、メキシコに向けて出航

4か月かかった、10月27日に、

メキシコのアカプルコに到着したのです


凄い 思いやりでございます

そのまま 
見過ごせないのが日本人の心でしょうか


更に、もう一つ


1611年 

日本の厚遇のお礼としてきていた

帰路に付いた船がまたもや嵐の為に、
大破したのです


今度は、伊達政宗 様です


船を作り、人を付けお送りしたのです


困っていると、お助けする

日本人の心でございます


とらんくすや。親父 も

頑張っていますよ

外国の方に、道や、お店を尋ねられましたら

我が店 そっちのけで・・・ おっとっと・・

お構いなしで、ご案内いたします

とらんくすや。親父にも少なからず、

日本の心が宿っているようでございます