誰が言い始めたか知らないが、人が亡くなったときに訳知り顔の奴がよく言う言葉がある。曰く「人間は二度死ぬ。一度目の死は肉体が滅んだとき。二度目は人々の記憶から忘れ去られたときである」と。
こんなもっともらしいことをドヤァな感じで言われると、「二度死ぬ」のは007だけでええやん!と突っ込みたくなる自分もいる。しかしながら、これは真理だ。特に生前に素晴らし活躍をし、死後長く語り継がれるような芸術家の死に触れた時には、どうしてもこの言葉が頭に浮かんできてしまう。
戦後日本を代表するマエストロ、小澤征爾が亡くなった。ツイッターのトレンドに上がってきて「もしや...」と思い恐る恐るニュースを調べたら2月6日に心不全で亡くなっていた。以前からだいぶ弱っていた姿をみていたから、近いうちにこういう知らせが来ることが分かっていたが、いざその時になってみると、この身が予想以上の喪失感に包まれた。
日本でクラシックを愛好したり、志した人にとって小澤征爾は道しるべだった。カラヤンとバーンスタインという二十世紀を代表する指揮者に薫陶をうけ、世界のメジャーなオーケストラを指揮し、日本人では難しいと言われてきた領域を切り開いてきたパイオニアである。野球で例えるならイチローの功績と近いものがあるだろう。
私が物心ついたときには、既に大巨匠だった。ウィーン・フィルのニューイヤーコンサートを振ったのは私が中学生のときで、正月に親父と一緒にテレビで観ていた記憶がある。その後、音楽をいろいろ勉強するようになって、マーラーの交響曲やストラヴィンスキーの「火の鳥」「春の祭典」その他「ローマ三部作」や「カルミナ・ブラ―ナ」は良く聴いた。勿論楽しませていただいた、というのもあるけれどそれ以上に勉強させていただいたという想いがある。謹んでご冥福をお祈りします。
なんとなく心の寂しさを埋めるためにネットを検索すれば、アマゾンの人気本のランキングには次々と小澤征爾関連本がランクインしている。「おいおい早速2度目の人生はじまっとるやん!」と思ってしまった。
芸術家の2度目の人生はどこまで続くのだろう。例えば画家のゴッホや「音楽の父」バッハは死後に「発見」されて、その革新性を認められ歴史に名前を刻んだ。小澤の師匠の1人のカラヤンは未だに激しい毀誉褒貶にさらされている。バーンスタインに関しては昨年スピルバーグ制作でマーティン・スコセッシがメガホンを取り伝記映画が製作された。死後も生き続けなければならないというのは、どんな気分なのだろう。死んでしまえば気苦労こそないだろうが、死人に口なしで反論することもできない。
「人間は二度死ぬ」の話で「肉体の死」と「記憶の死」という話をしたが、芸術家の場合、記憶の息は長い。芸術は作品を鑑賞する間は何百年たとうが作者と対話することが出来る。大事なのは鑑賞する側が作品と対話する努力をすること、対話するために勉強することであると思う。なので小澤先生、まだまだ色々勉強させていただきます。
最後に1曲。
チャイコフスキーの弦楽セレナーデ(小澤征爾/サイトウ・キネン・オーケストラ/2011)
【 関連本 】
(↓私は昨年、古本屋で買いました)