映画鑑賞ノート「君たちはどう生きるか」 | 名盤アーカイヴ ~JAZZ・FUNK・FUSIONを中心に~

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管楽器が活躍するジャズ・ファンク・フュージョン・ブラスロックなどを紹介します。更新はゆっくりですが、いずれは大きなアーカイヴに育てていきたいなと思います。好きな音楽を探すのにお役立ていただければ幸いです。なお、過去記事はちょいちょい編集・加筆します。

 去る7月第3週に「君たちはどう生きるか」を観てきました。今回は私がこの作品をどう観たかについて書かせていただこうと思います。

 公開から1月以上たってなんで今更?と思われるかもしれません。しかし観た方ならわかると思うんですが、「君たちはどう生きるか」はそうとうな難敵なんですよね...。まず、宮崎駿という重厚なキャリアのある作家の最後の作品なので、それを踏まえないといけない。さらに映画自体も、色んな要素が詰まっていてどの方向から語ったものかと迷ってしまいました。

 

 色々迷った末に、現時点でテーマを絞り込んで構成まできっちり書くのは厳しいという結論に至り、①観る前 ②観た直後 ➂観てから考えたこと、というざっくりした構成で今回は行かせていただくことにしました。だいぶ長くなり過ぎた(7000字近く)のですが、お時間があったらお付き合いください。なお、当然のことながら全面的にネタバレをしていますのでご注意のほどを。また文中の画像はジブリの公式サイトから「常識の範囲で自由にお使いください」とされているものを利用しています。

  「風立ちぬ」まで

(宮崎駿の前作「風立ちぬ」)

 

 まずは映画についてお話しする前に、私が宮崎駿という人をどうみているかについてお話させていただきましょう。言わずと知れた国民的作家なので詳しい経歴については割愛させていただきます。作風についていえば、元来は万人が楽しめる明快なエンターテインメントの作り手でした。しかし近年は作品としてエンターテインメントの枠組みは守りつつも、どんどんと作品の抽象性・芸術性・メッセージ性が強くなっていった印象があります。

 

 これは言い換えれば宮崎駿がより自由に作家性を発揮し始めた、ということでしょう。彼はヒットを求められる国民的作家という重い十字架を背負いながら、一方で徐々にエンターテインメントという枷を外して作りたいものをつくる方向へ進んでいったのだと思います

 

 そして本当は引退作になるはずだった「風立ちぬ」ではついに「自分語り」にたどり着きました。過去のドキュメンタリーで宮崎駿は「映画は子供たちのものだ」「自分の気持ちで映画をつくっちゃいけない」と言い、映画の中で自己表現をすることに対して禁欲的な姿勢を貫いてきました。それが前作風立ちぬでは、世間には目もくれず飛行機設計に向き合う主人公にひたすら映画を作ってきた自分とを重ね合わせ語ってみせたのです。これは巨匠の最後の作品としてこれ以上ない素晴らしい終わり方だったと思います。

 

  鑑賞前の期待

 

(「君たちはどう生きるか」のポスター)

 

 しかし、前作「風立ちぬ」の公開から約10年、また新たな新作「君たちがどう生きるか」が公開されたのはみなさんご存じの通りです。しかも、映画の中身は一切見せない異例のプロモーションが展開された中で、ポスター以外に唯一事前情報として伝えられた内容がひとつ。「監督の自伝的要素があります」。

 

 これを受けて私は勝手にこう思いました。「あぁ、宮崎駿はついにパンツ脱ぐんだな」と。下品な比喩で申し訳ありませんが、これが一番わかりやすいと思うので使わせて頂きます。「風立ちぬ」における自分語りは確かに画期的でしたが、実在の人物の半生と小説の中の人物を掛け合わせて創造した人物に自分を投影し、さらには声優にアニメ作家として自分をを重ねやすい庵野秀明を起用するという非常に婉曲でトリッキーな形でした。まぁさっきのパンツのたとえで言うなら、「脱ぐのか脱がないのかはっきりしろ!」というか...

 

 そこで、私が「君たちはどう生きるか」ではきっと、より率直な宮崎駿の内面の吐露が見られるのではないかと期待しました。また、最近エンターテインメント枠組みからどんどん離れていっている状況を考えれば、もの凄いアヴァンギャルドな作風で来るかもしれん、という覚悟もしました。斯くして、私は公開後調度1週間が経った映画館に乗り込んでいったわけです。

 

  この映画わからない?

 

 早速ざっくり感想からいきたいところなんですが、これが難しいんですよね...。本作に関して言えば、「わからない」という感想をよく聴きます。これに関しては「わからない」にも色んな種類があるんだろうと思います。ただ本作は物語構造がシンプルなうえに、「監督本人の自伝的要素がある」という補助線が引かれているので、少なくとも「何もわからない」映画ではないと思います。

 

 その一方で、やっぱりわたしも初見時にエンドロールで座席で「う~ん」とうなっていました。色々考えながら映画を観て、豊かな映画を観たなという満足感もある。ただし「よかったー!」とか「感動した!」と単純に言えない割り切れなさが残ります。引き続きパンツの例えを使えば、パンツは確かに脱いでるけど、実際に脱いでみたら、まぁそんなもんだよなぁ~、というか...すいません。わかりにくくて。それってつまりどういうことだよ!?というのは今からお話したいと思います。

 

  どう語ったものか...

 

(「異世界へ行きて帰りし物語の「千と千尋」)

 

 まず、本作を鑑賞した第一印象は「あれ?意外とこじんまりまとまってるぞ?」というものでした。本作の構造は実にシンプルです。ストーリーを簡単に要約するなら「異世界に迷い込んだ主人公が何らかの学びを得て現実に帰ってくる話」ということになります。これはファンタジーお決まりの型で、古い例なら「不思議の国のアリス」がそうですし、宮崎駿も「となりのトトロ」「千と千尋」で使っていますね。しかも、今回は監督の自伝的な要素があると言ってますから、異世界に迷い込む主人公は宮崎駿自身。そして迷い込む異世界を宮崎駿の心の中だと仮定できます。ここまでくれば作中に出てくる抽象的な表現や隠喩のかなりの部分に説明がつけられるでしょう。

 

(「紅の豚」より。飛行機の墓場は明らかに死の世界のイメージ)

 

 

 しかしだからといって単純な作品ではありません。構造こそシンプルな本作ですが、ストーリー上に膨大な抽象的イメージがあらわれてきます。これを「監督が自分語りをしているのだ」というメタな視点で読み解きたくなる衝動に駆られるわけですが、ひとつひとつのイメージにはそれぞれ重層的に意味が重なっており、それらのディティールを一つ一つ丁寧に分析していくのは大変です。ましてやそれをこのブログに書こうと思ったら、どんだけ時間がかかって何万字必要なんだ、という規模になりそうです。なのでどう語ったものか、と困ってしまいここのところ暫くは筆が止まってしまっていました。

 その後公開から1か月余りが経ち、プロ・アマ問わず多くの人がこの作品に出てくるメタファーについて語り始めました。そこで本稿では思い切って詳細な分析は他の人に任せつつ、もっと大枠から攻めてみたいと思います。

 

  宮崎駿にとっての「シン・エヴァンゲリヲン」

 

 本作と似た映画としてはイタリアの名匠フェリー二の『8 1/2(はっかにぶんのいち)』をあげる人も多いようです。しかしアート系の映画に疎い私としては、映画を見終わったとき、ある1つの作品が思い浮かびました。その作品とは何か。ズバリ庵野秀明監督の「シン・エヴァンゲリオン」ですね。ここからは「シンエヴァ」との比較から「君たちはどう生きるか」を語ってみたいと思います。

 

 まずはEVAと庵野秀明について確認しておきましょう。EVAは万人に向けたエンターテインメントでありながら、監督の私小説的側面が強いという異色のアニメシリーズです。これを生み出した庵野秀明という人は、ずっと14歳の思春期の葛藤を抱えながらアニメを作ってきました。自分以外の他人がこわい、人間関係で傷つくぐらいならオタクとして好きな世界にずっと浸っていたい、でもそれはそれで孤独だから誰かとつながっていたい…彼はこのような葛藤をEVAの中で告白してきたのです。

 

 四半世紀にわたって続いたEVAと庵野秀明の物語は2021年の「シン・エヴァンゲリヲン」で一つの区切りを迎えます。「シンエヴァ」の物語の中で庵野秀明は遂に葛藤を乗り越え、自らを肯定することで四半世紀にわたって続いたEVAの物語をたたむことができました。それだけではありません。EVAの物語を語り終えた庵野はもう一度生まれ変わり、まだ何物でもない頃の自分にかえったと言えるでしょう。物語のラストシーンのロケーションが監督の故郷の宇部新川駅であることや、シンエヴァの正式タイトルの最後についた「繰り返し」の音楽記号である「リピート」がそれを示しています。

 

 一方で宮崎駿は七転八倒しながらEVAを作り続ける庵野秀明の姿を遠くからずっと見ていました。もともと二人は監督とアニメーターという関係で「風の谷のナウシカ」を共に作った仲です。その後一本立ちして監督になった庵野に対し、オタクという人種に対して批判的な宮崎駿は時に皮肉を言いながらも、内心は苦しみながら作品を作る同志としてずっとシンパシーを感じてきたのだと思います。それは「風立ちぬ」の時に自分を重ねた「キャラクターの次郎の声優に庵野秀明を起用したことでも明らかです。

 私は「風立ちぬ」の前後から、庵野秀明と宮崎駿のシンクロ率が高まっていくのを薄々感じていました。だからこそ、私は「シン・エヴァ」の後に宮崎駿が「君たちはどう生きるか」みたいな映画を撮ったことに妙に納得してしまうのです。なるほど、これは宮崎駿にとっての「シン・エヴァンゲリヲン」なんだな、と。

 

  そしてハヤオは生まれ変わる...

 

「シン・エヴァ」は監督が物語の中で自身の葛藤を解決し、作家人生に一区切りをつける作品でした。このような作品の性質はそっくり「君たちはどういきるか」にも当てはまります。では宮崎駿が抱えていた葛藤とはいったいどういうものだったのでしょうか。

 

彼が抱えてきた葛藤と言えば「兵器をカッコよく書いている自分は戦争反対を謳う資格があるのか」とか「自分はアニメという呪われた夢を作ってそこに人々を閉じ込めているのではないか」というあたりが過去のインタビューや作品の分析から指摘されてきました。確かに今作でも、それらの葛藤は一部作分の中にも出てきてはいます。しかし今回の作品で最も大々的に取り上げれているのが自分は「悪意」を作品に込めてしまっている、ということについての葛藤でした。

 

(眞人のこめかみの傷)

 物語の中でその「悪意」を象徴するのが眞人が自分自身でつけたこめかみの傷です。この傷をつけた時の描写は本当に痛々しくて実際なら失血死しそうなほどおびただしい血が流れるのですが、そのことがいかに宮崎駿自身が自分を罰してきたかがよく表れていると思うのです。また、宮崎駿お得意の快感に溢れた飛翔シーンが最後の最後まで登場しないことも、それに関係していると思います。空を飛ぶためには体と心が軽くないといけません。心に重いものを抱えたままでは飛べないのです。

 

(大叔父様。この人が象徴する人物は...)

 

 宮崎駿が葛藤を乗り越えたことを描いているのが、この物語のクライマックスにあたる主人公眞人と異世界の創造主たる大叔父様の対話のシーンです。大叔父様がいったい誰を象徴しているキャラクターか、については様々な解釈の余地がありますが、ここではひとまず「今の宮崎駿」を充てておきたいと思います。私にはこの対話シーンが「今の宮崎駿」が「昔の宮崎駿」に語り掛けているように見えるのです。

 この対話の中で大叔父様は真っ新な13個の積み木で新しい世界を創造するよう眞人に促しますが、眞人は自分の中の悪意を理由にこれを拒否します。異世界を成り立たせている新旧の13個の積み木は「13」という個数から考えてこれまで宮崎が手掛けてきたアニメ映画を象徴していると考えて良いでしょう。ゆえにこのシーンは「これまで純粋に子供たちのためのことを想った作品をつくろうと思ってきたけど、自分の中に存在する悪意のために結局そんなことは無理だった」という監督の告白に見えるのです。自分の中の悪意の存在を認めたことで、作家人生の最後に宮崎駿は自分を肯定できたのだと思います。

 

 またもうひとつ、この物語で宮崎駿が大々的に公表している葛藤があります。それがマザーコンプレックスです。そもそも本作のプロットの軸は異世界に捕らわれた義母を連れ戻すことでした。その旅路の中で主人公は母親代わりをしてくれるおきくさんや、少女時代の母と出会います。言ってしまえば本作の背骨になっている構造が「マザコンで負った傷を癒す物語」であり、物語の中におけるマザコンというテーマの比重は非常に重いものがあるのです。それはすなわち宮崎駿の心の中でもこのコンプレックスの占める割合が大きかったことを示しているのではないでしょうか。

 

(義母夏子)

 しかもマザー・コンプレックスについてはかなりアブないところまで踏み込んだな、印象をうけました。物語の中で、母の妹にして新しい母となった義母夏子に対する眞人の感情はとても複雑なものです。まず表面化するのが母の面影を感じる夏子に甘えたい気持ちはあるけれど、それは失った母に対する裏切りではないのか、という背徳感です。これは自分の理想を実際の女性に強要しようとする男の暴力性と、それに対する罪悪感にもつながってきます。さらには自分の大切な女性(ヒト)を父親に取られるかもしれないという嫉妬心まで描いている。宮崎駿は自分の中にある醜い部分を告白し、その許しを求めているように感じました。このことに関して「引くわ~」と言ってしまうのは簡単ですが、多くの男が自分の中にある醜さから目を背けて女性を傷つけてしまうのに対し、宮崎駿は醜さを自覚してそれに葛藤している分だけ誠実だと思います。

 

(実の母ヒミ)

 そんな宮崎駿に無償の愛を行動で示して、葛藤から救ってくれるのはやはり実母のヒミでした。しかも少女時代の母、というのが凄いですね。私は少女姿のヒミが出てきたときに機動戦士ガンダムの赤い彗星のシャアの台詞を思い出しました。1stガンダムの最後を飾る「逆襲のシャア」という映画の中でシャアが「ララァ・スンは私の母親になってくれるかもしれなかった女性だ!」という驚愕の台詞を吐きます。え?ララァって少女ですけど!?初めて逆シャアを観た10代の頃は訳が分かりませんでした。しかし今なら私にもわかる。ガンダムを作った富野由悠季も、宮崎駿も同じものを心の奥底に抱えていた、ということでしょう。

 

斯くして、自分の中にある悪意とコンプレックスを乗り越えた眞人少年は現世へと帰還するのでした。言ってしまえばこれは「生まれ変わり」に等しく、本作は「宮崎駿がもう一度生まれ変わるための映画」だった、ともいえると思います。この作品の制作を通して、宮崎駿は何にも縛られずに作りたい作品を作る自由を手に入れました。しかし現世に帰還してからの描写は驚くほどにシンプルで、監督の今後を匂わせる描写は全くありません。

 

  おわりに。語りつくせない、この映画

 

 正直なところ、「君たちはどう生きるか」を最初に観たときは、さほど心に迫ってくる感じはありませんでした。自分の中では「宮崎駿の告白や!シン・エヴァや!」というところには到達してエンドロールを迎えたのですが、告白の内容は想像を超えてくるものではなかったし、所詮は監督の個人的な話なので、自分事としてとらえられなかったというのもあります。


 しかし、後で思ったのはそれは「自分の観方が悪い」ということでした。まず初見時には「パンツ脱げ!」とか何とか、自分の期待を押し付けて一旦ありのままに作品を受け入れることが出来ていなかった。また初見時には、私はひとつひとつの描写に込められた意味を読み解こうという「分析モード」全開で映画を観ていましたが、それは頭での理解を重視して、映画を感じるための心をシャットダウンしたまま映画を観ていたようなものです。戦争の悲惨さを頭で理解するのと、体感するのには大きな差があるように、頭で理解したところでこの映画の本質に触れることは出来ないのだ、とあとから思い直しました。

 

 「君たちはどういきるか」は物凄いパワーを持った映画です。映画内の描写やアクションシーンの1つ1つには監督のフェティッシュなこだわりが詰め込まれています。それをちゃんと体感しようとする姿勢があれば、伝わってくるものに大きな差があると思います。

 また、監督の自伝的な映画であることは事実だとしても、そこにとらわれて一面的な観方をしすぎるのは映画を矮小化してしまう危険があると思います。本当に様々な要素が意識的にも無意識的にも詰め込まれた映画なので、解釈の幅を広げることでもっと豊かな映画になると思います。パワーと深みがある作品というのは、こちらが聴く耳を持っていれば雄弁に語ってくれるものなのだ、そんなことに気づかせてくれる鑑賞体験でございました。

 

 ここまで7000字近く書き散らかしてきましたが、この作品の一部しか語ることが出来なかったと思います。それだけの厚み深みエネルギーを持った作品なのです。私としては折に触れて観返したり、観た後で反芻しながら長く楽しもうと思います。

 おすすめですか?と問われればエンターテインメントというよりアート作品なので、実は気楽にすすめられるタイプの映画ではありません。しかし「宮崎駿リテラシー」は日本人なら誰しもある程度持っていると思うので、チャレンジしたらとても素晴らしい体験になる可能性があります。宮崎駿は一生で一度もアート映画に触れることのない人たちにも(わたしだってアート映画は好き好んで観るタイプじゃない)それに触れる機会を作ってくれたのです。それに応えるのもまた良いのではないでしょうか

 

最後の最後に。映画のエンドロールで流れる米津玄師