「日本におけるキリスト教 119 イエス・キリストを悪魔のような神にしてしまう聖書解釈と福音理解」
台風10号が接近していますが、皆さんが無事に過ごせるようにお祈りしています。
さて、この世に生きていると、何事にもそれぞれにあわせることが必要不可欠です。
会社でも新入社員には新入社員に対しての教えがありますし、ベテラン社員と求められることが違って当然です。
それは「家族」も同じです。家の大切なことに対して、子供がまだ小さければ、教えないことが多いです。
そして「宗教」もそうです。教会に来る「未信者(イエス・キリストを信じない人々)」は未信者として扱われるのは当然です。
ですが未信者の方々にも「新約聖書」を渡して「どうぞ、読んでください」とプレゼントする教会は多いです。
すべての教会が聖書をプレゼントしたいと思っているのではないでしょうか。
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そして、未信者の方々が聖書を読むとき、このように思わないでしょうか?
「イエス・キリストという神さまは、未信者(イエス・キリストを信じていない人々)に対して、どのような教えをされているのか?」ということです。
そして、そのような主観で読んでいくと、とんでもなく恐ろしいことになります。
なぜなら、新約聖書において、メインとなる「イエス・キリストを信じていない人々」というのは、「悪魔が蒔いた毒麦であり、蛇ども、まむしの末ども」と言われる人々なのですから。
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それでは、新約聖書において、メインとなるイエスさまを信じていない人々である「悪魔が蒔いた毒麦であり、蛇ども、まむしの末ども」に対して教えていることをピックアップしてみます。
新約聖書の最初「マタイの福音書」
「しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。
「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。
それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で言うような考えではいけない。
あなたがたに言っておくが、神はこの石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。
斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
マタイの福音書3章7~10節
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わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。
だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません。
また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。
しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。
木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木のよしあしはその実によって知られるからです。
まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。
良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。
マタイの福音書12章30~35節
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それから、イエスは群集と別れて家に入られた。すると、弟子たちがみもとに来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください。」と言った。
イエスは答えてこう言われた。「良い種を蒔く者は人の子です。
畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。
毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。
ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。
人の子はその御使いたちを遣わします。
彼らは、つまずきを与える者や不法を行う者たちをみな、御国から取り集めて、
火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
マタイの福音書13章36~42節
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わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々から天の御国をさえぎっているのです。
自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせません。(マタイの福音書23章13節)
おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。(マタイの福音書23章33節)
それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。
『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。(マタイの福音書25章41節)
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マタイの福音書を読めば、イエスさまを信じていない人々であるまむしの末どもにおいて、終始一貫として「神の御怒り・神の裁き・地獄行き」が教えられています。
そのイエスさまを信じていない人々に対しては「神の愛・あわれみ・恵み」の教えは一切ありません。
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繰り返しますが、イエスさまは、イエスさまを信じていない人々であるまむしの末どもに対して「おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。」と宣告されました。
またイエスさまは「毒麦」とも言われて、次のように説明されています。
「毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。
毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。
ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。」
その事について、さらに詳しく次のように教えられました。
「イエスは言われた。「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。
なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。
あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。
あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。
悪魔は初めから人殺しであり、真理には立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。
彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。
しかし、このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません。ヨハネの福音書8章42~45節」
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そして最後の審判では次のように冷酷非道に宣告されます。
『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。』
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このように、新約聖書において、「イエスさまを信じていない人々」であるまむしの末どもに対して、イエスさまは終始一貫として冷酷非道の対応であります。
特に「最後の審判」というのは、人が地上での人生の終わりという時です。
この日本では「武士の情け」という言葉があります。
「武士の情け」とは、弱者への憐れみ、温情の気持ちを意味する言葉です。
どんなに悪かった人であっても、死ぬときは「弱者」のような状態です。
そのような死を目前にした悪い人に対して、心では「お前のようなヤツは地獄行きだ!」という言葉を言い放ってやりたくても、「あわれみや温情の気持ち」が上回るのが人間というものです。
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まして、人間としての考えでは、悪い人が死ぬ時に、神さまがどのような言葉を言われるのか。
それは人間以上の「あわれみ」の言葉だと思います。
例えば、「イエス・キリストを信じていない人々は地獄へ行く」ということであっても、神さまの最後の言葉は「愛する者よ」になると思います。
「愛する者よ。まことにまことに残念無念であるが、永遠の火に入ってしまうのだよ。」という言葉を想像します。
すべての人は神さまが創造されたのであれば、すべての人は「愛する者」であるはずです。
それが最後の審判において、イエスさまは「のろわれた者ども」と言い放たれたのです。
まったくと言っていいほど「神の愛・あわれみ」を感じません。
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まさにこの御言葉通りです。
「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。」
ですから、悪魔の子は、父である悪魔と共に永遠の火に入ることが定められた運命なのでしょう。
イエスさまは、父である悪魔から出た者(毒麦)に対して「毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。」と断言されているのですから。
最後の審判において「のろわれた者ども」と言われるのは至極当然でしょう。
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ですので、もしも、イエス・キリストを信じていない人が「イエス・キリストを信じる以外に救いはない。
イエス・キリストを信じれば天国である。人間は死ねば天国か地獄です」という教えを聞いて、
イエス・キリストを信じていない人という立場で、新約聖書を読めば、
新約聖書において、イエス・キリストを信じていない人というのは「悪魔が蒔いた毒麦であり、まむしの末ども」のことだと思っても当然です。
私がプロテスタント福音派の教会にいた時の経験上、現実に求道中の中で、そういう人が何人もいました。
そして「イエス・キリストを信じていない人々にとっては、イエス・キリストはなんて冷酷非道であり、悪魔のような神だ!聖書を読んでわかった!」と言い放たれたものでした。
その時は、何でそういう聖書解釈と福音理解になるのか理解できませんでしたが、今なら明確によくわかります。
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その時に理解できなかったのは何故か?
実は教会の牧師・宣教師・伝道師・信徒リーダーたちの一致した神学(聖書解釈と福音理解)の教えによって、マインドコントロールされていたのです。
つづく