「日本におけるキリスト教 118 イエス・キリストの教えに聞き従っているクリスチャンか確認します | ルーク4のブログ

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神様がクリスチャンに与える愛、夢、希望、信仰の証を中心に書いています。

「日本におけるキリスト教 118 イエス・キリストの教えに聞き従っているクリスチャンか確認します。」

 

このブログ記事は、無名で何の宣伝力もない私が書いているのですが、アクセス解析をみますと、前々回の116の記事から劇的に観覧者が増えたので驚いています。

 

ただ、投稿記事の内容は、既成のキリスト教会の牧師たちの教えとはまるで違うので、聞いたことがない聖書解釈と福音理解となっているために「いいね!」の数は減少しているのは当然でしょう。

 

そして、聖書の御言葉をそのまま引用して、私的解釈を施さないので、まるで違う教えであっても、誰も批判、非難、反証ができないのが大きな特徴です。

 

 

本題に入ります。

 

前回の続きですが、福音宣教において最も重要なことなので、この御言葉をさらに深堀りします。

 

「そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。

 

『民の議員、また長老の方々、 今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、 あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。

 

この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。

 

この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。

 

ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」 (使徒言行録 4章8~12節)」

 

 

この御言葉は、メシヤ(救世主)がエルサレムに到来することを待ち望んでいるイスラエルの民全体にとって、永遠の命に入るか、永遠の刑罰に入るか、ということが決まるほど重要でした。

 

なぜなら、主イエス・キリストがエルサレムに到来しましたが、メシヤ(救世主)と認めずに殺しました。

 

それから、次に滅びの子(偽メシヤ(救世主))がエルサレムに到来して、第二神殿の座に座って「メシヤ(救世主)」を宣言するからです。

 

イエスさまが殺された後に、再び地上に来られる来臨の時は、イエスさまを殺した者たちが生存中だとイエスさまは明確に教えられました。

 

それはイエスさまが捕らえられて、死刑にするための全議会においてでした。

 

「しかし、イエスは黙っておられた。それで大祭司はイエスに言った。「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」

 

イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」

 

すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「神への冒瀆だ。これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、今、神をけがすことばを聞いたのです。

 

マタイの福音書26章63~65節

 

 

もう一度、イエスさまが断言されたことを繰り返します。

「なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」

 

つまり、イエスさまを「神を冒瀆した者」として殺した者たちが生存中に、天の雲に乗って来臨されるのを見ることになるのです。

 

その、主の来臨前に、不法の人=滅びの子(偽メシヤ(救世主)がエルサレムに到来します。

 

「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。

 

彼は、すべての神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。テサロニケ人への手紙 第二 2章3~4節」

 

 

その続きです。

 

「不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、

また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われます。

 

なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。

 

それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。

 

それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。

テサロニケ人への手紙 第二 2章9~12節

 

 

ヨハネの黙示録には、次のように書かれています。

 

「この獣は、傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四十二か月間活動する権威を与えられた。

 

そこで、彼はその口を開いて、神に対するけがしごとを言い始めた。すなわち、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちをののしった。

 

彼はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。

 

地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名を書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。

耳のある者は聞きなさい。

 

ヨハネの黙示録13章5~9節」

 

 

この二つの御言葉の教えは、言い方は違うけれど一致しています。

 

「また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。

 

それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。

 

それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。」

 

「地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名を書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。」

 

 

すなわち、エルサレムに到来された主イエス・キリストをメシヤ(救世主)と信じずに殺した者たちは、神が惑わす力を送り込まれます。

 

不法の人=滅びの子(偽メシヤ(救世主)が、エルサレムに到来して第二神殿に座すと、信じて拝むようになります。

 

そして、永遠の火に投げ込まれるのです。

 

「 また、第三の、別の御使いも、彼らに続いてやって来て、大声で言った。「もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、

 

そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。

 

そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。

ヨハネの黙示録14章9~11節」

 

 

このように、イスラエルの民全体において、エルサレムに到来された主イエス・キリストをメシヤ(救世主)と信じない者たちが生存中に、その後にエルサレムに到来した不法の人=滅びの子(偽メシヤ)を信じて拝するようになり、永遠の火に投げ込まれます。

 

なので、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」という福音宣教は最も重要でした。

 

 

そして、クリスチャンたちは、その永遠の火に投げ込まれる、つまり地獄に行くのろわれた者どもに対して、どのようにすればよいか、イエスさまは次のように教えられました。

 

「そのとき、弟子たちが、近寄って来て、イエスに言った。「パリサイ人が、みことばを聞いて、腹を立てたのをご存じですか。」

 

しかし、イエスは答えて言われた。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます。

 

彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人の手引きをする盲人です。もし、盲人が盲人の手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。

マタイの福音書15章12~14節」

 

 

イエスさまは、「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます。彼らのことは放っておきなさい。」と教えられました。

 

使徒たち、クリスチャンたちは、そのイエスさまの教えに聞き従いました。

 

つまり、地獄に行く彼らは放っておくことが、神に聞き従うことです。

 

 

そして、現在の日本ですが、エルサレムに到来された主イエス・キリストのことをよく知らないので、信じることはありませんが、エルサレムに到来した不法の人=滅びの子(偽メシヤ)を信じて拝むこともありません。

 

すると最後の審判の基準は、

 

『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。

 

あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べ物を与え、わたしが渇いていたときに、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったときに、わたしに宿を貸し、

わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』

 

という善良な資質を持っているか、持っていないかという基準になります。

 

次の御言葉通りです。

 

「律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行いをする場合は、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。

 

彼らはこのようにして、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていることを示しています

ローマ人への手紙 2章14~15節」

 

 

このように、聖書の教えを詳しくみていくと、イエスさまの御言葉に聞き従うクリスチャンたちは、御霊の実を結ばせることがわかります。

 

それゆえ、教会での教えや福音宣教において、聖霊の働きに反する、不安、恐れ、憤り、怒り、敵意、争いなどは起きません。

 

しかしながら、イエスさまの教えに聞き従わず、聖書の時代のイスラエルの民全体に教えられている教えを、現在の日本の民に教えている教えにしてしまえば、聖霊の働きに反する不安、恐れ、憤り、怒り、敵意、争いなどが起きるのです。

 

そして、イエス・キリストを冷酷非道な悪魔のような神に仕立て上げてしまうのです。

 

次回は、その事について見て行きます。