「日本におけるキリスト教 ⑪ 自分のキリスト教的基盤の確信」 | ルーク4のブログ

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「日本におけるキリスト教 ⑪ 自分のキリスト教的基盤の確信」

 

日本の医療界においても「近代ホスピスの母」と言っている人が多い「シシリー・ソンダース」先生は、クリスチャンとしてまず「自分のキリスト教的基盤に確信がもてなければ、自分の使命などにも確信がもてない」と言われていました。

 

それは、内村鑑三先生、中村哲先生、マザーテレサ、ヘレン・ケラーさんたちも一致していました。

 

ヘレン・ケラーさんは「クリスチャンではない者はすべて罰せられる、と心の狭い人たちから聞かされてきて、私の魂は当然反発を感じていました。」と言われて、心の狭いキリスト教の福音理解を信じることができませんでした。

 

 

ヘレン・ケラーさんたちの福音理解を知ったお蔭で、ようやく公に発言することが出来るようになったので神さまに感謝!感謝!感謝!なのですが、

私自身も「生まれながら罪人である人間は地獄行きの運命」というプロテスタント福音派の教会の教えに対して「魂」が反発していたのです。

 

しかしながら、既成の教会の牧師やクリスチャンたちはまるで違うので、こうして公に言うことは出来ませんでした。

 

 

Facebookにおいて、面識はないのですが、自己アピールのためにFacebook友達申請をしてくる牧師やクリスチャンたちは少なくありません。

 

それで、こちらも深く考えずに承認したり、クリスチャングループに誘われてメンバーになったりします。するとタイムラインで、既成の教会の牧師やクリスチャンたちがキリスト教的基盤を発信する投稿を目にすることになります。

 

Facebookのあるクリスチャングループにおいて「いいね!」が100以上を連発している圧倒的人気を誇る牧師がいます。

 

その牧師が「キリスト教的基盤」の記事を投稿をした時も「いいね!」が約100ありました。「超いいね!」や「大切だね」も多かったです。

 

その記事はこのように書かれていました。

 

「『自分は死んだら地獄に落ちる』と信じていた。自分の行い、そして自分の内側を見る時にそう思ったのだ。教会に通い始め、イエス様を信じたらイエス様の十字架によって罪赦され、永遠の滅びである地獄から、永遠の命である天国に移されるという話を聞いた。

当然、私はすぐに信じて救われ、洗礼を受けた。

私は地獄から天国に移されただけでも万々歳なのだ。」

 

 

その牧師は「イエス様の救いとは、地獄行きからの救い」だということを明確に教えていました。

まさにプロテスタント福音派の神学と福音理解の通りです。

 

その「イエス・キリストの救いは地獄行きからの救い」というキリスト教的基盤の教えに数多くのクリスチャンや牧師たちが心の底から「アーメン!」という感じが伝わってきました。

 

 

そして、あるクリスチャンの投稿記事でも同じでした。

いくつもの御言葉によって、生前にイエス・キリストを信じなければ地獄に行き、永遠の罰を受けることを次のように伝えています。

 

「死後にさばきがある。へブル9章27、ゲヘナ(地獄)に投げ込む権威を持っておられる方(イエス・キリスト)を恐れなさい。ルカ12章4~5

 

狭い門から入りなさい、滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そこから入って行く者が多いのです。

いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見出す者はまれです。マタイ7章13~14」

 

この投稿記事にも約100名のクリスチャンたちが「いいね!」を押していました。「超いいね!」や「大切だね」も多いです。

中には知っているクリスチャン歌手も数名いました。

 

そのクリスチャン歌手たちのライブを見たことがあるのですが、ライブでは「地獄行き」の話は一切ありません。「神は愛」ということしか伝えていませんでした。

 

福音派の教会でも「神は愛」ということを前面に出している教会が多いです。

そして、「君は愛されるために生まれた」という賛美曲を歌って、迎え入れています。

 

 

私自身、この「イエス・キリストの救いは地獄行きからの救い」というキリスト教的基盤を確信していながら、

 

「神は愛」ということを前面に出して、「君は愛されるために生まれた」という賛美曲と「神の御目にはあなたは高価で尊い」という御言葉で迎え入れるという二律背反的な教会の牧師や伝道師、宣教師、信徒リーダー、クリスチャンたちには大きな反感を持ち続けていました。

 

「ありのままでイエス・キリストは愛してくださっている」と思い込ませてから、

 

「実は違います。人間は地獄行きがふさわしい罪人なのです。罪人のままだと天国に行くことはできません。それが神の義なのです。しかし、生前にイエス・キリストを信じれば救われて永遠の命である天国に移されるのです。」というキリスト教的基盤を後になって教えられれば、私の体験上でも人生最大にびっくり仰天しましたし、まるで世界一のペテン師か詐欺師だと思いました。

 

まだ、初めから「イエス・キリストを信じていない者たちは、そのまま死ねば死後のさばきで地獄へ行ってしまう」ということを教える牧師やクリスチャンたちのほうが良心的と思えます。

 

 

既成の教会の牧師やクリスチャンたちは「人間は地獄行きがふさわしい罪人」ということで一致しているように思います。

なので「私のような罪人は地獄に行く」と思っている人たちに必要な「福音」です。

 

しかし、私自身も親、兄弟、親戚一同、親しくなった友人たちは「人間は地獄に行く」とはまったく思っていません。

 

テレビなどで活躍している有名人たちの発言を聞いても「死んだら天国で逢おう」と思っています。

 

だけど、人を愛することができない、憎むことしかできないので、平然と罪を犯し続けて、まるで人を傷つけることが快感であり喜びであるという人たちは地獄に行くかもしれないと思うことがあります。

 

 

聖書の教えも明確にその事を教えています。

「罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。

 

神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ち壊すためです。

 

誰でも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら神の種がその人のうちにとどまっているからです。

その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。

 

そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。第一ヨハネ3:8~10」

 

「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。…

 

あなた方は、あなた方の父である悪魔から出た者であって、あなた方の父の欲望を成し遂げたいと願っているからです。

 

悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。

 

しかし、このわたしは真理を話しているために、あなた方はわたしを信じません。ヨハネ8:31~45」

 

 

聖書には「神から生まれた者」と「悪魔から出た者」という区別を教えています。

 

そして、神から生まれた者は罪のうちを歩むことができないと明確に教えています。

 

私自身、クリスチャンになる前もクリスチャンになってからでも、罪人であることを痛感しますが、罪のうちを歩むことができない人間です。

 

例えば、好きになった人が結婚していれば、その配偶者が交通事故か癌で死んでくれて、その後に慰めてあげるという恐ろしいことを考えることがありました。

 

しかし、相手の幸せを第一に考えれば、配偶者といつまでも仲良く暮らすことです。

それが最善であり、自分にはもっと自分にふさわしい人が与えられるという考えに落ち着きます。

 

また、うそをついたりして、相手を傷つけると心が痛みます。

 

そして罪悪感から耐えられずに悔い改めて、相手の許しがあれば平安が与えられます。

けれど、悔い改める機会を失えば、何年経っても罪悪感が残ります。

 

 

それは、私の親や友人、私が好きな有名人や著名人でも同じだと思います。

 

不倫が発覚して「不倫は文化だ」という趣向を発言した俳優が、世の中から大バッシングを受けました。

不倫バッシングによって、不遇の人生に転落したのです。

 

その後、22歳下の女性と結婚して子供を授かると、過去の不倫は文化発言を恥ずかしく思い、後悔して「言ってはいけない言葉がある」と発言しています。

 

普通の人間は、誰もが皆「罪人」です。

 

ですが、罪を犯すと罪悪感がありますし、またその罪に対する重い刈り取りがあります。

 

しかし、聖書が教える「悪魔から出た者」は、父である悪魔の欲望を成し遂げたいと願っていて、人殺しであり、真理に立っていません。

 

そして、「神を愛し、隣人を愛しなさい。」という真理に立っておられる神さまを信じることが出来ないのです。

 

そして、最も小さい者の一人が助けを求めているのに、平然と見捨てるのです。

 

 

聖書にイエス・キリストが教えられる「最後の審判」は、マタイ25章31~46に明確に書かれています。

 

イエス・キリストが、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来られる時に、最も小さい者の一人が助けを求めている時に、食事や飲み物や着るものを与えたり、病気の時に見舞ったりした人たちは永遠のいのちに入ります。

 

そして、最も小さい者のひとりが助けを求めているのに、見捨てて、何もしなかった者どもは、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ!と言われています。

 

 

「ヨハネの黙示録」にも、ヨハネを名乗る人が「最後の審判」を書いていますが、イエス・キリストが教えられた最後の審判とはまるで違います。

 

イエス・キリストが教えられるのは、永遠のいのちに入る人たちも、永遠の火に入る者どもも、飲んだり食べたり、嫁いだり、めとったり、建てたりしていました。

 

そして憎むべき者(不法・滅びの子)が聖なる場所にいて、「自分こそ神だ」と宣言します。また、偽預言者たちが「偽キリスト(不法・滅びの子)こそ救い主」と言って奇跡と不思議を行なって、民を惑わしていました。

 

イエスさまがこの地上に来臨される日に、不法・滅びの子はイエスさまの御口の息で殺し、来臨の輝きで滅ぼしてしまわれます。(第二テサロニケ2:3~8)

 

そして、永遠のいのちに入る人たちは空中に挙げられて空中でイエスさまと逢い、それから最後の審判の時に右に置かれます。

 

しかし、ヨハネの黙示録では、イエスさまがこの地上に来臨される時は、竜と二匹の獣が支配している大患難時代で、獣の像を拝んで666の刻印を額か手に受けた者たちだけが地上に残っています。

 

そして、イエスさまの来臨の日には、獣と偽預言者は火の池に投げ込まれますが、悪魔は捕らえられて、千年間閉じ込められますが、その後に解き放さなければならない(黙示録20:1~3)

 

それから、首をはねられて殉教した人たちが生き返って、キリストと共に千年の間、王となります。

 

千年の終わりに最後の審判があり、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書き記されていない者は皆、獣を拝んだ(黙示録13:8)という理由で、火の池に投げ込まれます。

 

 

聖書を読めば、最後の審判で誰がどのような理由で、永遠のいのちに入り、誰がどのような理由で悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入るのかを明確に教えています。

 

永遠の火に入るのは、悪魔から出た者であり、父である悪魔の欲望を成し遂げたいと願って、罪のうちを歩み、盗み殺し滅ぼすことを生きがいとして、最も小さい者の一人が助けを求めているのに見捨てます。

そして、神を愛し、隣人を愛するという真理の教えに反逆します。

 

そのような人がいれば、今のままだと地獄へ行ってしまうという「福音」が必要でしょう。

 

しかし、私自身、聖書が教える「悪魔から出た者」というそのような人にまだ会ったことがないと思います。

 

そして、私が知っている人たち、関わっている人たち、愛しているすべての人たちは聖書が教える「神から生まれた者」だとしか思えません。

 

そして、何のために生きて来たのかわからず、競争社会のこの世に疲れ果て、人に裏切られたり、病いや死の恐怖に襲われたり、いじめられたり、この世の地獄を経験します。

 

それゆえ「神は愛」だけであるということが自分のキリスト教的基盤となりました。

そして内村鑑三先生、中村哲先生、マザーテレサ、ヘレン・ケラー、池田浩平君、シシリー・ソンダース先生たちのキリスト教的基盤を知って確信が得られました。

 

そのことについて、引き続き書いていきます。

 

つづく