無教会の現代についての福音 20 教会と縁を切る ④ | ルーク4のブログ

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神様がクリスチャンに与える愛、夢、希望、信仰の証を中心に書いています。

「無教会の現代についての福音 20 教会と縁を切る ④」

 

【※初めに。この投稿記事はプロテスタント教会と縁を切った人たちの話です。なので、プロテスタント教会の方々にとっては「異端だ!」と断罪される教えになりますので、ご了承ください。】

 

また、私は無教会の教えですので、同じ無教会の方々が心の支えになっています。

なので、この尊敬する味方の方々(内村鑑三、矢内原忠雄、中村哲、長谷川町子、斉藤宗次郎)を思いながら書いている次第であります。(サザエさん風に言ってみました。)

 

 

さて、無教会の同志「大嶋」さんは、無教会と福音派の違いをこのように教えています。(大嶋さんは内村鑑三のようにズバッと言っていますが、こちらは配慮して一部をカットしています。)

 

「無教会は個人的な信仰心の独白ではなく、神の支配の普遍性を『発見』するために、それぞれの足元を『掘って掘って掘りまくる』ことを促す信仰であって、『○○○!ただ信ぜよ!』という既存の教会に対して『考えて、考えて、その結果を互いに分かち合おう』という信仰です。

 

福音派は『○○○〇!聖書の文字に○○○!教会の伝統に○○○!牧師に○○○!』と言うだけで、掘ることをしない。」

後は怖くて書けませんので、ここまでにしておきます。

 

 

さて、これから、大嶋さんが指摘されていることを、前回記事の「人間」について、私なりに説明していきます。

無教会では「掘って掘って掘りまくる」ということは、聖書を「調べて調べて調べまくる」ということにもなります。

 

福音派の教えでは「人間(イエス・キリストを信じない罪人)は、地獄へ行く(永遠の火に投げ込まれて、永遠に炎の中でもがき苦しむ)」ということです。

 

*

 

「人間」が地獄へ行くという教え。その教えを聖書で調べると、明確に書いてありました!

 

マタイ23章です。律法学者とファリサイ派の人々に対して、イエスさまは「へびよ。マムシの子らよ。どうしてあなたたちは地獄の罰(ゲヘナの刑罰)を免れることができようか。」と明確に教えておられます。

 

その続きには、地獄行きになる理由を詳細に教えておられます。それはこのような理由です。

 

「わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂でムチ打ち、町から町へと追い回して迫害する。

 

こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちに降りかかって来る。

 

はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の若者たちに降りかかって来る。」

 

*

 

またイエスさまは、地獄の刑罰を免れることが出来ない偽善の律法学者たちやファリサイ派の人々の特徴も明確に教えておられます。

 

「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行ない、また守りなさい。

しかし、彼らの行ないは見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。

 

彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に乗せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」

 

まだまだありますが、この「背負いきれない重荷を、人の肩に乗せるが、自分は指一本貸そうともしない。」というのは、その続きのマタイ25章の地獄へ行く者が地獄へ行く理由と同じです。

 

「それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下たちのために用意してある永遠の火に入れ!

 

お前たちは、わたしが飢えている時に食べさせず、のどが渇いた時に飲ませず、旅をしていた時に宿を貸さず、裸の時に着せず、病気の時、牢にいる時に訪ねてくれなかったからだ!

 

はっきり言っておく、この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかった事なのである。』

 

地獄の刑罰を免れることが出来ない者たちは、隣人に背負いきれない重荷を乗せて、自分は指一本貸そうともしない。

当然に、そのような者たちは、最も小さい者たちが助けが必要な時に、指一本貸そうともしないのです。

 

*

 

律法学者たちやファリサイ派の人々は、神を知っていて、モーセの座に着いている者たちでした。

しかしながら、聖書にはこう教えています。

 

「私たちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。『神を知っている』と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者でその人のうちに真理はありません。

 

しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。第一ヨハネ2:3~5」

 

「神の子と悪魔の子たちとの区別は明らかです。正しい生活をしない者は、皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です。第一ヨハネ3:10」

 

「義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったのです。第二ペテロ2:21」

 

 

イエスさまが律法学者たちやファリサイ派の人々に「地獄の刑罰」を逃れられない理由を詳細に語られる前に、律法学者とファリサイ派の人々はイエスを試そうとして「どの掟が最も重要でしょうか」と尋ねました。

 

イエスさまはこのように教えられました。

「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。

第二も、これと同じように重要である。隣人を自分のように愛しなさい。律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。マタイ22:34~39」

 

 

イエスさまが「地獄の刑罰を免れることができようか」と言われた「人間」は神を愛したり、隣人を愛することが出来ませんでした。

 

イエスさまが遣わした預言者、知者、学者をムチ打ち、迫害して、十字架につけて殺しました。

また、神の御子イエス・キリストもムチ打ち、十字架つけて殺しました。

 

そして自分が背負うべき罪を隣人に背負わせました。

隣人の一人が助けを求めても見捨てます。

 

 

今度は、私たちの隣人である「人間」について見ていきます。

 

私が住む町の今月号には、あやまって駅のホームに転落した高齢者の方を救った女性と男性が表彰された記事がありました。

 

その駅は、特急電車と急行電車は停車しないので、速いスピードで駅を過ぎ去って行きます。

駅に停車する電車の時刻はわかっていますが、特急と急行が来る時刻を調べて知っている人などいないでしょう。

 

つまり、ホームに転落した高齢者を救う行為は、自分の命を捨てる覚悟も必要なのです。

 

神にかたどって造られた「人間」は、隣人を愛して、その命を救うために自分の命を捨てる行ないをするものです。

 

私もクリスチャンになる前、高校生の時にその経験をしたことがあります。

1度は女の子が道路に飛び出し、車にひかれそうになった時、自分もひかれるかもしれないけれど、「一か八かだ!」と女の子を救いに行きました。

 

イエスさまはこのように教えられました。

 

「わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること。これ以上に大きな愛はない。

わたしの命じることを行なうならば、あなた方はわたしの友である。ヨハネ15:12~14」

 

神にかたどって造られた「人間」は、未信者でも、その友のために自分の命を捨てる行ないをする人がたくさんいます。

 

正確に言えば、その最も小さき者である友を救って、自分も助かるというつもりで行動してしまう人で満ちていると思います。

 

毎年、その報道がなされています。時には隣人や友、子どもは助かり、救う行動をした人が亡くなってしまうケースもあります。両方が亡くなる痛ましいケースもあります。

 

イエスさまの掟を行なう人間たちは、イエスさまの友だと言われているのです。

 

それは、イエスさまを信じているとか、信じていないとか、そういう条件はありません。無条件です。

 

 

まだ聖書の教えを知らず、イエス・キリストを知らない「人間」がイエスさまが教えられる掟を行なえるのは、このような御言葉の通りです。

 

「天地創造の前に、神は私たちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。

イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。エフェソ1:4~5」

 

「なぜなら、私たちは神に造られた者であり、しかも神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。

私たちは、その善い業を行なって歩むのです。エフェソ2:10」

 

 

聖書の教えでは、「人間」は、善い業を行なうために造られた神の作品でありますが、一方で肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動する罪人であります。(エフェソ2:3)

 

無教会の漫画家「長谷川町子」先生の作品には、その事が日常の軽いタッチで描かれています。

 

また、プロテスタント教会と縁を切った脚本家の「倉本聰」先生の作品には、隣人を自分のように愛する人間が、隣人を傷つける罪を犯してしまう、その両面を見事に教えています。

 

地獄の刑罰を免れることが出来ない人間は、神も隣人も愛することが出来ません。

兄弟を憎むのです。

 

人を愛する者は、神の律法を全うしているのです。

 

その先には、神の存在があり、最後の最後になってしまってでも、死ぬ直前になったとしても、霊的にでも神と出逢い、神と共にいることになるようなイメージがあります。

 

つづく